2017年3月20日月曜日

春の彼岸法要


 
春の彼岸法要をお勤めしました。彼岸は日本独自のものですが、歴史は古く聖徳太子の時代から行われていたようです。今日の法話は、仏教と彼岸でした。林寺脩明さんのお話を引用させていただきましたが、14代目となるわたくしの父母を遡ると8,192人になるというお話には驚きました。

「ありがたい」の反意語は「当たり前」という話しをさせていただきましたが、クイズにしたところ見事連研受講中の女性が正解されました。

私たちは自分のいのちは自分のものだと思っていますが、所有という概念は自分が作ったとか、自分がお金を出して買ったとか自分の自由になるという感覚でいます。ところがいのちは自分で作ったものではありませんし、自分で買ったものでもありません。まして、自由にはならないものです。

ということは、自分のいのちは自分のものではないということになります。「我がいのち、我がいのちにあらず」です。

仏説阿弥陀経には、西方浄土の様子がこと細かく描かれていますが、娑婆であっても豪華絢爛なところはいくらでもあります。サウジの王様あたりは、すごいところに住んでいらっしゃることでしょう。極楽が如何に素晴らしいところでも、樹木や鳥や宝石や池は地上にもある当たり前の姿です。そこにしかないというものではありません。

往生浄土とは、死後に何か素晴らしいところに生まれ変わるのではありません。当たり前のことが宝なのです。私たちはそれに気づかないだけなのです。悟りとはそのことに気づくことなのだと思います。
 

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