2016年12月31日土曜日

人生のサイクル

 
今日でこの一年も幕を閉じます。また明日から新しい一年が始まります。考えて見ると保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学とすべて一年単位で進学、進級して来ました。一年という単位が一つのサイクルであったことがわかります。

社会人になると給料をもらうのは1ヶ月単位というサイクルに変わりますし、人事異動ということになると4月と10月という半年単位のサイクルに変わります。仕事に関しては出勤から退勤までという一日で仕事を片付けるというサイクルになります。土日が休みという職場では、1週間が仕事のサイクルになることも多いと思います。

退職したとたんにそのサイクルが無くなると体調管理が難しくなります。サイクルがあるということは、知らない間に生活のリズムを作っているのです。自由時間ばかりだといつでも出来ると思って、今やらなければならにという気持ちがなくなります。それが良くないということがわかりました。

お寺の仕事というのは、大半が掃除と荘厳と事務仕事です。その間に法務があるという感じですから、普段はルーチンワークと言ってもいいと思います。行事は年間で組まれているものがほとんどです。一般参加タイプのイベントは週、月単位に行なわれているようです。

人生のサイクルは乳児期、幼児期初期、幼児期、学童期、青年期、成人期初期、成人期後期、老年期となるようですが、その中にもいろいろなサイクルがあります。多くのケースで3年が一つのサイクルという見方が定着しているようです。いわゆる種まき、育成、収穫という考え方です。皆さんにとって2017年はどのサイクルになるのでしょうか。

2016年12月30日金曜日

年賀状を出し続けて50年以上

 
やっと年賀状の番になりましたが、プライベートも含めて約400枚です。手書きで対応しようとすれば、丸二日はかかる量です。中学生くらいから年賀状を出していた記憶がありますので、軽く五十年以上出していることになります。お寺は喪中はがきという風習はありませんので、家族が亡くなっても年賀状を出します。家族に変動があったことを知らせる年一回のたよりです。そのため祝意を表す文面ではありません。

仏教では生れて来たものには必ず死が訪れるもので、忌み嫌うことではないと考えます。お釈迦様も親鸞聖人も嘆き悲しむなと言われています。特に浄土真宗では、死は浄土に往って生まれるということで、往生といいます。さとりを開いて仏になるということです。


そもそも喪中はがきというものが始まったのは戦後のことで、一般的になり始めたのは昭和40年代と言います。マナーとかルールではなく風習ですのでしばられる必要はありませんが、几帳面に出される方が多くなりました。お寺の年賀状はお経の一文であったり、親鸞聖人の和讃を使わせていただきますので喪中の方にもお出ししています。

貰われた方は驚かれるかも知れませんが、仏教には忌中や喪中という考えはないので、正しく知っていただくいい機会だと思っています。忌中や喪中には「穢れ」の意味が入っていますので、どちらかというと神道に近い考え方だと思います。ですから仏教でも○回忌と言わずに○回会と言い換えたほうがいいのではないかと思っています。


2016年12月29日木曜日

年末モード

 
年末年始に向けて買い物に出ましたが、どこも年末モードで大賑わいです。普段と同じことをしようと思っても車が多すぎて時間がかかります。食品売り場もお正月商品が幅を利かせていて、値段も高めになっています。灯油売り場は行列となり待ち時間が出来ています。

12月になっても雪が降らないのでその分楽ですが、年が明けたらドカッと来るのではないかと心配しています。年末はお寺にもたくさん参られます。一年間お世話になりましたとお布施やお供えを持って来られる方もお見えになります。こういう時に何かお渡しできるものとしてハンドタオルとかお線香を用意しているのですが、もっとしゃれたものを考えたいと思っています。

お参りされる方の中にもお墓や納骨堂ではなく、本堂で手を合わせられる方があります。みなさん心が落ち着くと言われます。そのためには華を絶やさず、堂内を清浄にしておく必要があります。年末は普段できない掃除をしなければなりません。昔は長時間本堂にいると凍り付いていましたが、今はエアコンがあるので、お磨きも快適に出来ます。

年が変わると言っても人間が勝手に決めたことで、何かが変わるわけではありませんが、一つの節目ということで年内に済ませたいと思うのも分かります。元旦からは三日坊主でもいいので、新しいことにチャレンジする気持ちも大事です。三日坊主も積み重ねれば一ヶ月にも一年にもなります。

残り二日間何が残っているのか分かりませんが、皆さん頑張って下さい。私は年賀状と掃除がまだです。

2016年12月27日火曜日

人はなぜ悩み苦しむのか

 
掲示板に相談できるお寺ですと書いたら、それを見て相談に来る人が少しづつ出て来ました。当たり前といえばその通りですが、普通の家に張り出しても、まず来られないでしょう。お寺だから解決してくれるのではないかという期待を持って門を叩かれるのでしょう。お寺はそういう力をまだ持っています。

相談でも他人をどうにかしたいという場合は、まず解決策はありません。他人の心を変えることは出来ないからです。自分の考えを変えたり、自分が変わることは可能ですから、それによって悩みや苦しみが解決することはあります。

子どもがなく夫婦二人の生活を送っていらっしゃった方でしたが、最近ご主人を亡くされたということで、今の生活に悩んでおられる様子でした。三時間以上かけてゆっくりお話しをお聞きしました。最後に本堂にお参りしましたが、本堂という空間の持っている力はすごいと感じました。お帰りの時には眼の輝きが違っていました。

お釈迦様は人が悩み苦しむのは、思い通りにならないことを思い通りにしようとするところから生まれるものであると言われています。まず、物事をありのままに受け取ることが大切だと言われます。自分の思い通りにしようとするのは、自分の目で見、耳で聞いたことを重視し、それに基づく価値判断をするからです。つまり、自分勝手な見方しかしないからです。

そうは言っても自分は自分だと云われるかも知れませんが、変わらぬ自分なんかはどこにもないのです。様々な影響を受けてコロコロ変わっているのが自分の姿です。その姿がわかればもう悩むことはありません。今は受け入れがたい現実でも、それを受け入れることにことによって、時が解決してくれるでしょう。時は妙薬なのです。

2016年12月26日月曜日

ダークウェブ

 
どこの世界にも闇の世界があるということは知っているつもりでしたが、違法な取り引きが盛んに行なわれていて、いくら検索しても見つからないネット世界のサイトがあるとは思いませんでした。googleやyahooで探しても見つからないということです。また、インターネットエクスプローラーなどの普通のブラウザではたどり着くことが出来ません。

以前院家日記でも取り上げたことがありましたが、2012年に遠隔操作ウイルスで複数のえん罪を生み出した事件がありました。犯人がなかなか特定できなかったのは、「Tor」というソフトを使い海外の複数サーバーを自動で経由し匿名化することで、IPアドレスなどから利用者の所在がわかりにくくしていたものです。

ダークウェブもそういう仕組みを使って誰が犯罪行為の当事者であるかがわからないようにしています。ここでは非合法な販売が日常的に行なわれています。以前タックスヘイブンに関与している企業や個人名がパナマ文書としてネットサイトで公開されましたが、タックスヘイブン自体は違法ではなく、道義的に見てどうかという問題でした。

しかしダークウェブでの情報は違法なものがたくさんありますので、そのデータが漏れればたちまち逮捕につながることもあります。実際にダークウェブにある不倫クラブの情報が洩れて自殺に追い込まれた人も複数いましたし、薬物取引で逮捕された人もあります。

ダークウェブと聞くとどんなものか興味を持つ人がいると思いますが、いくら匿名性があるといっても、いつかはバレるものです。中には登録しただけで犯罪となるものもあります。危ないものには近づかない方がいいと思います。くれぐれも気を付けましょう。

2016年12月25日日曜日

犬と人間の違い

 
お寺の留守番犬リラが来て、もう5年が過ぎました。食事は日に2回で、散歩をしてウンチを1回して過ごします。毎日元気に見えますので、体調の変化に気付くことはありませんが、実は人間と一緒で、体調は毎日変化しています。

はじめての方には必ず吠えますが、10歳以下の子供には吠えません。何度か来ていただくと吠えなくなります。井戸で水をくまれたりして、目的がお墓参りだとわかると吠えません。自分の縄張りをどこからどこまでと意識していて、50メートル離れた駐車場であっても吠えます。

このように知能レベルが高い犬ですが、人間との決定的な違いがあります。帰りが遅くなるときに朝食と夕食を一緒に出すと、いくらこれは夕食用だといっても全部食べてしまいます。つまり夕食用にストックしておくということが出来ないのです。

犬には将来自分がどうなるかを予測する能力はありませんが、人間にはあります。そしていつかは自分も死ぬ運命にあることを知っています。知る方法は二つです。一つは自分の先祖が誰も生きていないということです。そしてもう一つは自分の体が確実に老化していることがわかるからです。死ということを科学的に知らなくても、経験的に体験的に予測するわけです。

人間は4才~7才のころに死を理解するといいます。死はショッキングな出来事ですので、このころの心のケアは大切です。病気で余命を宣告された場合、絶望感に陥ることが予想されます。実際に自死する人もあります。ではなぜ人間はそれを克服出来ているのでしょうか。つまり、どうせ死ぬのになぜ生きるのかということです。

答えは簡単です。日常生活の中では、死ぬことを忘れているからです。いつも死のことを考えていたのでは、生きられないということで、脳がそういう大切なことを忘れるように出来ているらしいです。人間はいつも目先のことを考えるように出来ています。

井上陽水の「傘がない」という歌も端的にそのことを表しています。考えなければならない大切なことがあるけど、今、問題なのは雨なのに傘がないということであるという歌です。ずっとそうであれば悩むことはないのですが、年老いてくると目先のことより死のことの方が比重を増して来るので、悩む日が多くなるというわけです。

2016年12月24日土曜日

吉田拓郎人生を語る


昨夜NHKのSONGSで、10月27日パシフィコ横浜で行なわれた吉田拓郎のコンサートを取り上げていました。ここのホールは5,000人入ります。今はネットでいつでも見える環境にありますので、いろんな時のコンサートを見ていますが、最新映像なのでそれなりに感じるところがありました。吉田拓郎と言えども、それなりに老けたなと思いますが、老いを隠さない所がいいですね。

年をとるということは何にも良いことがないと、憚らずに言ってのけるところが好きです。芸能界は老いを隠していつまでも元気でいるように見せる人の方が多いけど、フォーク系のミュージシャンは年季をもろに見せる人が多いですね。

テレビに出なかった過去を語っていましたが、初めての体験が良くなかったですね。テレビ用にショートバージョンにするということを伝えなかったプロデューサーが悪いのですが、それは嫌がらせだったかも知れませんね。オーケストラとの演奏がずれてしまい、バカヤローと怒鳴られた時は肝を冷やしたでしょうね。

自分のやりたい音楽を、自分流にやって食べて行ける人はあまりないと思います。バックのメンバーを一新した今回のコンサートは、曲目から曲順までこだわった現段階で最高のコンサートだと語っていました。バンドのメンバーが全員歌で参加する「雨の日の情景」などの演出は、昔の拓郎からは考えられませんでした。

「全部抱きしめて」の演奏中に、メンバー紹介が行なわれましたが、TVで放送されたメンバーの吉田拓郎に対するコメントがいいですね。ちなみにパーカションを担当した玉木正昭さんは、寺子屋コンサートの常連ギタリストである玉木孝治さんの弟さんです。

2016年12月23日金曜日

仏教の本質

 
仏教の本質とは何であろうかと考えて見ました。まだまだ僧侶としては駆け出しですので、一気にそんなことがわかるとは思いませんが、何となく他者救済ではなく自己救済のものであると考えるようになりました。自力と他力、悪人正機、往生浄土などはまさにそうだと思えるのです。それと同時に自分の死(未来)を考えるようになった時に、必要となるものであると思います。

ですから現代を前向きに泳いでいる若い人には必要のないものです。無くても生きる上で支障はありません。死を意識するようになって、死が心の多くを占めるようになって来ると、自分は何のために生れて来たんだろうとか死んだらどうなるのだろうというような経験や知識では解決出来ない問題に対峙することになります。

その時仏教が役に立ち、死への不安を打ち消してくれるものだと思います。仏の世界に入るには出家が必要だといいますが、修業をする環境としてはふさわしいものであるというだけで、出家が条件というわけではありません。在家であっても妙好人のような方は他にもいらしゃいます。

仏教は万人のための教えだとは思いますが、一度に救えるのは一人だと思います。なぜなら、その人を救うためにはその人になり切るくらいでなければ救うことは出来ないからです。自己=他者になったとき、自己救済が他者救済になるのでしょう。教義的には違うかも知れませんが、何となくそんな気がします。

このままでは生きていくことが出来ないほど、不安に押し殺されそうになったときに威力を発揮するのが仏教なのでしょう。それまでは役に立たないかも知れません。邪魔になるかも知れません。仏教とは不思議なものです。


2016年12月22日木曜日

宗教ブームとお寺

 
若い人にお遍路さんが流行ったり、パワースポットで人気が出たり、マインドフルネスということで瞑想や座禅、写経などがブームになっています。答申も「自然、身体性を伴う宗教体験が求められる趨勢に対して、真宗らしい対応が必要」と言っています。

親鸞聖人が自力修行を限界まで行い、その結果他力に帰するという境地に至ったのに対し、現在の真宗僧侶は自力を経験せず他力を教義として概念的に理解しようとしているのではないかと考えられます。浄土真宗の特長は門信徒そろっての聴聞にありますので、一般向けの法座体験会を、どこの寺院でも気軽に出来るような仕組みを作って行く必要があると思います。

出来る住職だけが先行するのではなく、浄土真宗のお寺であればどこに行っても体験出来ますというようなイメージを定着させる必要があるでしょう。また、真宗寺院では抵抗があるかも知れませんが、若い人の足をお寺に向けるため、仏教入門編として瞑想やヨガ、写経、写仏、仏像彫刻などの体験教室を取り入れることも考えなくてはなりません。

今までのお寺のイメージである葬儀・法事は非日常であり、それだけではお寺に足を運ぶ機会は数年に一回程度です。それではお寺を身近に感じることはなく、いつまで経っても敷居が高いままです。お寺を日常的に感じていただくためには、このブームを利用しない手はありません。

要するに法話会や講を中心に置きながら、誰もが日常的に足を運びやすい催しを考えればいいということです。子育て支援の一環として本堂を託児所として開放したり、フィットネスクラブやジムを開設いている寺院もあります。寺カフェは一般的になりましたし、コンサートは多くのお寺で取り組んでおられます。

しかし一方ではそういうものには一切関知しないというお寺さんもあります。これからもそれで成り立って行けば問題ないのでしょうが、気づいた時には手遅れということもありますよ。

2016年12月21日水曜日

お寺とホームページ

 
 
再び答申に戻ります。10年、20年後の日本社会で求められる僧侶像・寺院像答申によりますと、「ホームページの無いお寺は、世の中に存在しないお寺として見なされる」と記述してあります。現在はホームページの無いお寺が圧倒的多数です。

企業がホームページをつくる場合、目的は大きく分けて2つあります。
一つ目は、広報宣伝活動です。その企業について知りたい人に、ホームページを通して詳しく情報を提供するということです。もう一つは、営業・販売のためです。ホームページを通して、店に来てもらったり、商品を買ってもらったりするということです。どちらにせよ、ホームページが得意な分野は、不特定多数を対象にした活動です。

例外的には、すでに顧客になっている人に対して、紙媒体で送るべきものをホームページで閲覧してもらったりすることや、会員向けにダウンロードできる書式や音源、画像などをホームページで、保管する場合があります。

ですから檀家制度に乗っかって活動する場合は特に必要のないものです。しかし檀家制度が崩壊し、誰もが自由にお寺を選べる時代になると、自分のお寺がどんなお寺であるかを世間にアピールして行かなければならなくなります。

その時に備えて今から準備しておきなさいということだと思いますが、それより先にすべきことがあると思います。それは自分のお寺の特長を捉えたパンフレットを作ることです。お寺でホームページを作らなくとも、必ず誰かがお寺を比較したホームページを作ります。

今の価格コムやぐるなびみたいなものです。そしてサイトによっては、お寺に☆☆☆を付けることになるかも知れません。例えば評価項目はこういう感じです。①お寺の敷居の低さ②設備の充実度・使いやすさ③通夜・葬儀のやりやすさ④接待・サービスの充実度⑤研修会など教化活動の充実度⑥イベントの豊富さ⑦会計の透明性⑧情報発信の豊富さ⑨寺院の永続性⑩住職の人柄など多数考えられます。

一旦こういうサイトが出来ると、お寺としては手の打ちようがありません。そういう意味では、今からこれらに対して準備をしておく必要があるということです。先日問題となったDeNAのように、偽物を寄せ集めたようなサイトもありますので、見極める目を持つことも必要です。

2016年12月20日火曜日

本当はもらったいのち

 
体調が悪くなっていたとき思ったことは、自分の体なのに何故思い通りにならないのだろうかということです。眠りたいと思っても寝られず、ここで吐いてはダメだと思っても体が勝手に反応してしまいます。自分の意思とは全く関係ありません。

考えて見れば心臓も意思と関係なく動きますし、寝ている時でも肺は呼吸をして血液に酸素を送っています。血液は体中に張り巡らされ、心臓や肺もそのおかげで動いています。脳も血液が届かなければ生きていくことは出来ません。それらは脳でコントロールされているのではなく、細胞時代からその役目を担っているのです。

自分の体だと思っていますが、実は自分の意思で出来ることは全くなく、すべて整えられ準備された上で最後のところを動かして自分がやったと思っているだけなのです。病気になって自分の思い通りに出来ることが無くなった時に初めてそのことに気付くのです。

けがや感染症などの場合を除いて、病気になったら無理に早く治そうとせず、体が持っている治癒力に任せて見るのも良いことかも知れないと思いました。なかなかそれを許してくれない環境がありますが、病気を理由に休めばいいと思いました。絶対に自分でなければならないことなど世の中にはそんなにありません。

病気なったらジタバタせず、自分のいのちと向かい合って不可思議なことに思いを巡らすことをお勧めします。自分の体がいとおしくなると同時に、元気になったら自分のいのちをつまらないことに使ってはいけないと思うようになります。これこそさとりへの第一歩だと思います。

2016年12月19日月曜日

急性胃腸炎

 
一昨日のことです。晩御飯を食べてから少し胃のあたりに違和感を感じたので、風邪のひきはじめかなと思って風呂は控えました。11時ごろには就寝しましたが、午前0時過ぎに急に吐き気を催し、かなりの量嘔吐しました。それによって幾分かすっきりしましたが、まだむかむかが残っていて眠れませんでした。

次は多分3時ごろだったと思いますが、再び強烈な嘔吐感がありこのときは胃液まで吐いてしまいました。その後はトイレに通うこと数回でした。嘔吐は胃の変調、下痢は腸の変調ですから、これは急性胃腸炎ということになります。胃の痛みは周期的に起こるもので、過去にも経験したことのある痛みでしたので、ある意味安心でした。

朝まで一睡も出来ず日曜日を迎えました。この日は連研の当番に当たっていましたので、開会時の会所住職あいさつと午後からの2時間の講義をやり切ることに集中して、他の時間は休息をとることに使おうと決心しました。家族は反対しましたが、人の前に立ってダメな時はその時と思いました。

もちろん朝食、昼食はのどを通りません。脱水症状の現れで口が乾くのでスポーツ飲料をホットにして少量ずつ飲むように心がけました。他のお寺さんが来られても最小限の挨拶だけにし、あとは居間で横になってすごしました。会所寺院の挨拶は手短に済ませて、午後の講義に備えました。

このときに考えたことは、お釈迦様の涅槃でした。お釈迦様は旅の途中で信者から食事の施しを受け、食あたりで体調を崩され、そのまま死に至ったと言われています。こういう状況で死ぬのはイヤだなと思いました。人の死の状況は選べませんが、死の瞬間は脳内麻薬が出て安らかなのかなと考えたりしました。

もう一つは談志師匠の病気を押しての高座を思い出しました。テレビでしたが高座にひとたび上がれば最高のものを見せるという気概を見せていただきました。そこまでは行きませんが、精一杯やろうと思いました。おかげで何とか無事終えることができました。

ただ、午後4時から予定されていた護持会の望年会には参加出来ませんでした。参加された方からLINEで美味しいご馳走を見せていただきましたが、よだれも出ませんでした。今日は少し体調が戻り、朝はおかゆをいただきました。昼は抜いて夜何を食べようかと思っています。うどんすきくらいがいいところでしょうか。

2016年12月17日土曜日

本山離れをいかに食い止めるか

 
次のテーマは本山として寺院の単立化をいかに防止するかということです。様々な理由により宗派を離れ単独で宗教法人となるお寺を単立化と言います。本願寺派からは具体的な数字が出ていませんが、このテーマが答申に載るということは、実態があるということでしょう。

宗派を離れる一番大きな理由は賦課金とか懇志の要請などの経済的なものだと推測されます。お寺の収入が減って行く中で賦課金制度のあり方も再検討される時代に入ったと思えますし、事業のたびに高額な懇志を末寺が負担するというやり方も考え直して行かなければならないと思います。

お寺によっては本山懇志もご門徒さんに割り振っておられるところもありますが、私のところは門徒会館建築にご懇志をお願いしたところでもあり、数年かけて寺院会計から捻出したいと考えています。鳥取因幡組の予算も昨年から大幅に減額して活動を続けています。

宗派に所属するメリットを棚卸しするということですが、普段意識しないメリットよりも、スケールメリットを生かした教育研修をお願いしたいと思います。右肩上がりの時代はどんぶり勘定でも成り立ちますが、お寺が選ばれる時代になりますと最低限の経営ノウハウは必要となります。

お寺の運営管理については、文化庁の実務研修会に任せるのではなく、本山が主導して行くべきです。宗教法人と言っても収入と支出のバランス感覚は中小零細企業と一緒ですから、会計・経理や門徒拡大のためのノウハウ、関係法令、登記関連、門徒管理業務、パソコン関連などについて研修会を持っていただきたいと思います。それこそが宗派に所属しているメリットではないでしょうか。

2016年12月16日金曜日

お寺のコミュニティ化

 
次にあげられているのが、お寺を人が集まり話し合いができる場にしようということです。もともとお寺は説教を聞く場であると共に、芸能文化を楽しむ場であったり、市が立つ場であったり、勉学をする場であったり、情報発信する場であったわけです。江戸時代の寺請け制度により、檀家となりその家の法事や葬儀を受け持つことになったころから、活動の中心が葬祭関係に移行して来たようです。

もちろん現代でも地域に向けてコンサートや落語会、ヨガ教室、写経、瞑想など様々な活動をしている寺院はありますが、圧倒的に少数です。それはノウハウがないことと同時に、スタッフ不足もあげられるでしょうし、時間が取れないことも一因だと思います。お寺だけで食べていくことの出来るところは限られており、多くは兼業です。そうすると平日は仕事で、土日に法務をこなすことになります。コミュニティ化することは物理的に困難です。

自分のお寺で考えて見ても、そういう活動が出来るのは退職してからが中心です。兼業では無理、高齢化してからは無理ということになると、退職してから70代くらいまでの20年足らずが活動期間ということになります。それを無理のない形でバトンタッチして行かなければならないと思います。

収入は法務で確保し、活動は社会還元というのも一方法ですが、継続的にやって行くのであれば、活動に伴う収入があってもいいと思います。法務による収入は寺の維持管理に回し、活動自体で収支トントンになるようなことを目指すべきではないでしょうか。更には活動が収益を生むようなことになれば理想です。

答申でもお布施以外に収入の柱になるようなものを作ることが必要だとありますが、宿坊や保育園、幼稚園のような形態であれば可能かも知れませんが、収入の柱を新たに作ることは難題だと思います。ただし、小さなコミュニティを集約することで副収入の道を探ることは可能だと思います。お寺の空間、時間を利用することで収入の道を探って行きましょう。

2016年12月15日木曜日

お布施の問題

 
アマゾンのお坊さん便がネットで話題になって、再びお布施の問題がクローズアップされましたが、常に話題になる事柄です。ネットでは高いお布施を要求されたとか、言葉ではいくらでも結構ですと言いながら、一度払ったお布施を、突き返されて上乗せさせられたなど悪い話しばかりが聞こえます。

少なくとも私の周りにはそんなお寺はありません。逆に実費(花代、交通費、会場費)にもならないようなお布施だったという話しは、たまに聞きます。また、アマゾンを下回るお布施は、珍しくないのが実態です。定額の方がわかりやすくていいという話しも聞きますが、お布施の意味が知られていないためだろうと思います。

どこの業界でもそうだと思いますが、1,000人に一人くらいの割合で悪徳の人がいますと、そのことばかりが独り歩きし、全体が悪印象になってしまいます。運悪くそういう人に当たったなら二度と利用しなければ良いわけです。お寺は勝手に離れることは出来ないと思っておられる方がありますが、トライして見る価値はあります。

信教の自由(宗教の自由)とは、特定の宗教を信じる自由または一般に宗教を信じない自由をいうと憲法に規定されていますし、国際規約でもすべての者は、思想、良心及び宗教の自由についての権利を有すると謳われています。

お布施は寄付の一種ですから、強要されるものではありませんが、少なくともお寺を維持するだけのお布施がなければ、お寺は潰れてしまいます。潰れていいということであれば、お布施の額について話す必要はないと思います。

概念としては、潰れては困るという人が集まって作られているのが檀家ですので、檀家にはお寺を護持する義務があると考えられます。同様にお寺には檀家の人が期待する活動に応える義務があると考えられます。今はお寺に期待する活動の一番は葬儀になるでしょうから、檀家の方が安心して任せられる葬儀を執り行うことが第一義務でしょう。

早晩檀家制度は崩壊しますので、その時に地域の人々から潰れては困るお寺になっているかどうかが明暗を分けます。今の30代40代の方は生涯賃金が激減する予測が出ていますので、お寺を選ぶ目もシビアになって行くでしょう。

2016年12月14日水曜日

家族葬の増加とお寺での葬儀

 
次の外部環境の変化は葬儀の問題です。近年は様々な要因により、参列者が100人を超えるような葬儀が少なくなり、二親等までで行うような小さな葬儀が少しづつ増えて来ました。家族葬という言葉の定着により、少人数での葬儀であっても引け目を感じることなく行われるようになりました。少人数だから費用が少なくて済むというわけではありませんが、それについては別の機会に述べます。

家族葬になると、司会がなくても不都合はありませんので、葬儀社の方との打ち合わせより、ご遺族やご親族との打ち合わせが多くなり、顔を見ながらの話し合いが増えます。その時に故人のお話しを聞く機会が増え、法話に生かすことも可能になります。参列者も来賓に気を取られることが無くなりますので、僧侶に注目が集まります。心から喜んでいただける葬儀にできる可能性が広がります。

そして家族葬規模になれば、駐車場、下足箱、参拝者控室、トイレ、お茶の接待など一連の流れがお寺で可能となります。規模が小さくなることで、葬儀社から2~3名のスタッフを助っ人で入れていただくことにより寺族で対応できる環境が整います。

本堂での通夜や葬儀は改めて荘厳壇を作らなくても、通常の荘厳に少し手を加えるだけで対応出来ます。そして複数の葬儀を行なうことがありません。お参りの方は全て一人の人の弔問に駆けつけた方ですので全体的に一体感が生まれます。

結果的に費用も少なく済みますので、ご遺族の方にとっては満足できる葬儀となります。どこのお寺でも現状で全て出来るというわけではありませんが、お寺の葬儀をやることによって改善点が見つかります。そこを改良することによってハード面もソフト面も価値が高まると思います。今こそお寺での葬儀に一歩踏み出す時だと思います。

2016年12月13日火曜日

寺院会計のあり方

 
次にあげられているのが、「適切な会計、各種規約の整備等、寺院運営の近代化の必要性」です。この文面を見るだけで今の時代に近代化が必要とは、お寺はどれだけ遅れているんだと思ってしまいます。

前住職の時代を振り返って見ますと、食べるのに精一杯ということもあったでしょうが、賃貸の下宿人を置いたり、貸倉庫業、貸車庫、貸販売会場などをやっていました。今で言う宗教法人の収益事業です。税務がどうなっていたのかは分かりません。

お寺の会計もどんぶり勘定でした。宗教法人という概念はなく、教師としての収入+お寺の収入が住職の収入という感じでした。ですからお寺の収入がないときは赤字会計だったと思います。ただ、お米や野菜がお布施の中心でしたから食べるものには困らなかったと思います。

現在は宗教法人法に基づき会計処理をしていますし、毎年の決算や財産目録、役員名簿は監督官庁である県に提出しています。住職の収入は毎月宗教法人からいただく給与です。サラリーマンと同じように所得税、住民税、社会保険料を納めています。

また、宗教法人の決算内容は護持会運営委員会で公開していますし、門徒さんからの開示要求があればいつでも公開します。これを見れば収入と支出のすべてがわかります。私が36年間全労済という生活協同組合に勤めており、会計経理を担当していたこともありますので、税理士を頼まなくても日常の会計処理は自分で出来る点が大きかったと思いますが、これからの寺院は中小企業並みの会計処理を求められると思います。

また、寺院規則や墓地管理規約、納骨堂管理規約、境内建物管理規約など従来住職の頭の中で行なわれて来たことも明文化しておかなければならないでしょう。特に檀家制度が崩壊すると今まで以上に様々な経歴を積んだ方が出入りされますので、いままでの寺檀関係で済ますというわけには行かなくなります。この提言はもっともだと思われます。

2016年12月12日月曜日

寺院と公益性

 
答申書にはお寺を巡る外部環境分析として一番目に「公益的な寺院運営を望む社会的要請の高まり」をあげています。この問題は、宗教団体が税務上で優遇を受けていることに起因しています。逆に言うとなぜ宗教団体は優遇されているのかということを知らなければどう対処していいのか分かりません。

このことを知らないと宗教団体は公益活動をしているから優遇されているのだろうと勘違いをすることになり、それならば一生懸命公益活動をしましょうということになります。全国で約7万5千と言われている寺院の大多数は公益活動を行なっていません。行なっているのは宗教活動です。

実は宗教活動自体に公益性が含まれていると考えられています。宗教は社会全体に精神の安定をもたらし、人間の道徳・倫理の根幹を提供しているというのがその理由です。

反論する人は、お寺は檀家組織で成り立っているのだから檀家のための活動であり公益性はないと言うかもしれません。確かに多くのお寺は檀家制度で成り立っていますが、基本的に加入脱退は自由です。信教の自由が保障されています。ですから今は関係ない人でも将来お寺にかかわることは可能です。すべての人に門戸は開かれていると捉えるべきだと思います。また近い将来檀家制度は崩壊しますので、加入脱退の自由はもっと明らかになるでしょう。

一般の方はそういう背景を知りませんので、お寺に公益性を求めているのだと思います。公益性の具体例をあげますと寺院墓地や境内には無断で入っても罪に問われることはありません。もっともお寺であっても個人の住宅部分は住居侵入罪に問われます。

公益性については、宗教活動を飛び越えて公益活動を行う必要はありませんし、宗教活動が本来の活動ですので無理をする必要はありませんが、今後孤立する人が増えてくる地域社会にあっては、地域になくてはならない寺院活動の在り方を考えていく必要があると思います。

2016年12月11日日曜日

20年後の僧侶像

 
浄土真宗本願寺派が所属寺院あてに発行する「宗報11・12月号」に宗門総合振興計画の一環としての提言『10年、20年後の日本社会で求められる僧侶像・寺院像答申書』が掲載されました。各寺院に届いたのが3日前ですので、まだ目を通していないお寺も多いのではないでしょうか。

その扱いですが、住職はこの答申を「我が寺・我が事」として受け止め、所属僧侶や寺族、門信徒に紹介し、内容について話し合い、意見がある場合には報告することとなっています。この宗報というのは、組織内部の公式連絡用通信誌のような位置付けであり、内容を門信徒まで広げて話し合うと言うのは異例のことです。

私が気になる点は順次アップして行きたいと思いますが、まず答申が出された背景について抜粋して記載します。

【戦後、核家族化が進み、さらに近年では単身世帯が増加し、家を継承するという家族のあり方は急激に減少してきた。また、都市部への人口移動が進み、過疎地では、地域社会の維持が困難になってきている。これからの時代に、いかにしてご法義を相続していくか。ご門徒の次世代も、これまでと同様に寺院との関係を持つことを期待できず、寺檀制度がいよいよ崩壊を目前に控えた今、ご門徒に対してはもちろんのこと、各寺院にご縁のない方々に対して、いかに働きかけていくのかを考えることは、宗門だけの問題にとどまらず、伝統仏教の全ての宗派に共通する喫緊の課題である。】

【これからは、僧侶も人も選ばれる時代になるといわれる。逆にこれまでは、門徒は固定の所属寺との間で義務的な関係にあった。義務教育のように、御法座への参拝や仏教婦人会等への参加を始め、葬儀にしても法事にしても、先例通りにするのが当たり前であり、そうせねばならないものとしての意識があった。だが今後は、義務から選択へと寺院と門徒の関係の動機が変化する。すなわち、この僧侶ならこの寺院ならと言うように、自身にとって価値を感じるか否かに従って、僧侶か寺院を選ぶ時代になると言う。様々なところで指摘されるこの見立ては、正鵠を射ている。これからの時代は、僧侶や寺院が、まずは社会から求められることに応えられなければ、法統の継承は困難なものとなる。逆に言えば、その期待に応え続ける中でこそ、ご法義は相続されうるであろう。】以下明日へ続く

2016年12月10日土曜日

地震災害見舞金が送られて来ました

 
10月21日の鳥取県中部地震で被害に遭われた鳥取因幡組の寺院に対して山陰教区教務所より見舞金が組長宅へ現金書留で送られて来ました。現金の方が誠意が伝わると言うことかも知れませんが、不正が行われる可能性があるやり方だと思ってしまいました。

鳥取因幡組では災害見舞金規程の給付基準に該当する災害があった寺院は、二ヵ寺でしたが一ヵ寺は私が写真を撮り、給付申請も簡単だったので私がやりました。サラリーマン時代保険関係の協同組合に勤めていましたので、請求関係は比較的慣れていました。

今回の給付は規程による見舞金のほかに、全国各地から寄せられた支援金を元に規定外の見舞金も送られて来ました。見舞金の受領書は私の押印で良いそうですので、被災寺院からは教区に届くものはありません。この仕組みも良くないと思いました。架空請求があった場合の防止は不可能です。

僧侶がそんな悪いことをするはずがないという性善説に基づいたものかも知れませんが、サラリーマン時代に多くの不正事件を見て来ました。どんな人でも切羽詰まると悪事に手を染めることがあると思います。ましてやお金の問題ですと出来心ということもあります。

私の出向先でのことですが、仕入れの代金の支払いは通常は納品伝票と請求伝票をもとにした振込ですが、部門責任者が納品先に行くついでがあるから現金を持って行くという例がありました。持って出た現金を全て渡さずに、今月は資金繰りが厳しいのでという理由で一部しか払わないことがあったそうです。つまり残りはポケットにということです。

そのままだとすぐにばれますが、翌月以降やりくりすれば長期間不正が発覚することはないということです。その他にも手口はいろいろありましたが、全て現金での扱いがもとでした。まさかこの人がということばかりでした。親鸞聖人もおっしゃっているように、環境や条件が整えば誰でも悪事に手を染めてしまうということです。そうなっていないのは縁がないだけであり、喜ぶべき状態にあるということです。

ですから、私達に出来ることは不正を働く可能性のある環境を作らないことです。そのためにも現金書留での送金という方法は、早く無くして欲しいものです。

2016年12月8日木曜日

除夜の鐘が消えてゆく


日本人をあらわす言葉に、クリスマスを祝い一週間後に除夜の鐘を聞き、正月には神社で初もうでをするという節操のなさを指摘する言葉がありますが、宗教というより風習のようなものだと思っていました。

ところが近所からのクレームで、除夜の鐘を止めるお寺が少しづつ増えています。東京・小金井市 にある、100年 以上の歴史を持つ『千手院』は、住宅街に囲まれているお寺ですが、近隣からの苦情で『除夜の鐘』の中止を決めたと言います。また、静岡県牧之原市にある、450年以上の歴史を持つ大澤寺も近隣の方からのクレームにより『除夜の鐘』をやめたそうです。

住みにくい世の中になったと思いますが、除夜の鐘の意味を説いたり、大切な風習だと言ったところで、そんなものは自分には関係ないと言われれば引き下がざるを得ない気もします。それに遠くから聞こえる鐘であれば風情があって良いと言えますが、すぐ近くで響きが伝わるとなると我慢して下さいとも言えません。

奥ゆかしい日本人が、嫌なことはイヤですと自己主張出来るようになったのかも知れません。それは良いことだと思いますが、そういうことが拡大解釈され、過剰反応になっては困ります。現代は24時間生活社会ですから、正月でも早朝から仕事をする人もありますから、そういう人にとっては深夜の鐘というのは迷惑かも知れません。

一人でも反対があったらやめるのか、あるいは多数決で押し切るのか、難しい面がありますが解決策は必ずあると思います。昼に鐘をつく『除夕の鐘』というのも一方法ですし、音を抑えて参加者だけが味わうというのも一つの方法だと思います。みんなで共存共栄できる方法を考えていくのもいいと思います。寂しくない世の中にしたいものです。

2016年12月7日水曜日

出先でのブログ更新

 
自宅でブログを更新するのはパソコンを使っているので簡単ですが、パソコンの使えない環境で更新するのは一苦労です。ブロガリはスマホ対応なので、キーボードがパソコンより使いにくい点以外は、ほぼ同じように使えます。入力画面もスマホ対応になっているところが便利です。ただスマホによるコピーや貼り付けに関しては範囲指定が微妙に難しくて、いつも手間取ります。

一方googleのbloggerは入力画面がスマホ対応になっていないので、別のアプリを使って入力することになりますが、まだいいアプリに巡り合っていないので見合わせています。昨夜の病院ではWifiが使えたので、ipadを使ってパソコンと同じ入力画面で作成することが出来ました。あとで仕上がりを見ると、文字が最小になっていたり、文字色がグレーになっていたりしていました。デフォルテの仕様がパソコンと違うようです。

私の場合ホームページは、ホームページビルダーで作成し、ブログは別のところにリンクさせて使っていますので少々変則です。独自ドメインも持っていますので、ワードプレスを使ってブログ込みのホームページを作りたいのですが時間がありませんし、封筒などの印刷物を差し替えなければならないので、見合わせています。

ブログのアドレスを変えるのでも2か月間は同時更新していますので、ホームページを引っ越すことになるともっと大変だと思います。年末年始で時間が取れればやりたいと思っていますが、孫が遊びに来ることを思えば自分の世界に閉じ籠ることは出来ません。また1年延ばすことになるのでしょうか。

2016年12月6日火曜日

入院の付き添い

 
先日から母の下肢の腫れがなかなか引かないので先生に診てもらったところ、いつもの飲み薬だけでは足りないので、点滴をして血液の流れを良くしましょうということになり、入院することにしました。4年前の12月に静脈血栓症という病気になり、1ヶ月ほど入院したことがあったのですが、それ以来の入院です。いわゆるエコノミークラス症候群という病気で、体をあまり動かさないために血液が固まる病気です。

飛行機の狭い席に同じ姿勢で長時間乗ることからつけられた名前ですが、地震を避けるため車中で寝泊まりする時にも発生することで有名です。母の場合は風邪を引いて丸一日寝ていたことが引き金となりました。ごく短時間で血栓ができる事もあり、血栓が心臓に飛んだり脳に飛んだりすると命に関わる事もある怖い病気です。

このたびは右下肢が腫れましたが、初期は左足が腫れることが多いようで、4年前は左足全体でした。その後は、ワーファリンの調整で上手くいっていましたが、先週金曜日に4年ぶりに腫れと痛みが出ました。

薬は飲んでいましたので原因は不明ですが、以前と同じ12月ということですから季節や環境と関係あるのかも知れません。ということで、今日は7月に叔母に付き添って以来の病室での泊まりとなります。


2016年12月5日月曜日

年回忌法要の未来

 
親族で行った法事に参加出来なかったので、改めて宝塚からお参りに来られたご家族がありました。お父さんの十七回忌でしたが、都合が合わなくて欠席したため気になっていたようです。ところがたまたま鳥取に用事が出来たという事で喜んでお参りされました。

最近は十七回忌くらいになると一家族だけのお参りという事も多くなりました。一方、五十回忌までは、必ず親族に声をかけ、一族の絆を確かめる機会にしておられるご家族もあります。そういうことは、施主の方が伝えて行かれるかどうかにかかっています。

また、仏事の作法についても家族によって随分違いがあります。お寺の方からしきたりを伝えた方が良いのかも知れませんが、お布施に関する部分は伝えにくい事もあります。浄土真宗はしきたりが少ない方だと思います。例えば、添え法事はありませんし、塔婆もありませんのでお布施以外に包まれる必要はありません。

お布施とは別にお膳料や車代、お菓子代、お花代などを包まれる方もありますが、それらは任意のもので、必ずしなければならないものではありません。当山では全てお布施として預からせていただきます。

お布施は住職へのお礼や給与ではなく、全て宗教法人会計へ入金されるものです。そして、寺院を維持するための費用として使われるものです。一般的に葬儀のお布施が高いと感じられることがあるかも知れませんが、これらは伽藍の修理や建て替えのための資金として使われるものです。企業で言えば減価償却費用となるものですので、精一杯のご協力をお願い致します。

2016年12月4日日曜日

お寺は信仰の対象か?

 
昭和43年に高校を卒業したメンバーが門徒会館に集まって卒業50周年の同窓会を2年後に行なうための相談をしました。全部で15クラスあったので、20人ほどが集まりました。門徒会館を見て、いいところがあるなあと感想が漏れました。

自然とお寺の話しになり、色々あって檀家を代わったと言う話しや、親の葬儀で苦労した話しなどが出ました。この年代になると、死の話しや葬儀の話しを避ける人はいません。さすがに信仰の話しまでは出ませんでしたが、同級生に僧侶がいるということは心強いと言われました。

その心は、自分のお寺の和尚さんに聞きづらいことでも、同級生であれば本音で相談できるというものでした。やっぱりお寺は敷居が高いのだなと思いました。この世代までは、親と同じようにお寺と付き合って行くという姿勢が見えますが、自分の子どもたちにそういうことを継がせようとは思っていないようです。

消滅可能性自治体が全体の三分の一存在するという話しは、2040年のことですが、われわれの世代の半数以上が死亡する時期と重なっています。85歳になるのがあと18年後の2034年です。そこから加速度的に亡くなって行くでしょう。

人口減少が全ての産業に影響を及ぼし、寺院も消滅の危機から逃れることは出来ないと思います。檀家の視点で見ると、葬儀や法事の機会が減り、高齢化によりお盆や彼岸などの年中行事と関わる活動が出来なくなって行きます。そして寄付や護持会費などの費用負担が重くのしかかってくるようになります。

お寺から見ると檀家が減少し、経済的に苦しくなりますが、かといって兼職できるような環境にはありません。後継者選びが困難となり、総代などのなり手が無くなり、寺院としての要件を満たすことが難しい時代になるでしょう。お寺との結びつきが信仰にあると言う人は5%しかいません。95%の人はお寺が無くなっても困らないとも言えます。

信仰の問題を掘り起こさない限り、寺院消滅の根本的な問題は解決しないと思います。

2016年12月3日土曜日

お寺の暖房

 
つい先日は源佐さんで著名な青谷町の願正寺さんで連研⑧が行なわれました。本堂は広く11月末という時節も相まって暖房なしではいられない寒さでした。本堂には6台のガスストーブが設置されており、百数十畳の本堂もほっこりとした温かさに包まれました。何でも地区にプロパンガスの供給所があるそうです。普段とガスの使う量が違うということで途中で自動的にストップするというハプニングがありましたが、復旧するとまたすぐに温かくなりました。

当山の本堂は内陣もあわせて70畳ほどですので、エアコンと大型ファンヒーター2台で24度くらいにはなります。以前はファンヒーターが強のままで18度くらいまでしかなりませんでしたが、床を外断熱したのと、窓をペアガラスにしたので随分暖かくなりました。

冬の暖房で大切なのは、換気に注意しながら気密性を高くするということです。 伝統的な日本家屋は夏は良いのですが、冬の寒さに弱いという欠点があります。それを補って余りあるのがこたつです。こたつは人をダメにするくらい気持ちいのですが、本堂にこたつというわけには行きません。

気密性を高めるためには、隙間風が入らないように目張りをすることと、窓ガラス一枚の場合は、内側にカーテンをするなど外気と直接ふれる場所を少なくすること、見てくれを我慢して外断熱をすることだと思います。

そしてエアコンでもストーブでも下から温めるということと、天井の暖かい空気をサーキュレータなどでかき混ぜることが必要です。以上のことをこまめにやることで、今までよりずいぶん暖かくなると思います。

2016年12月2日金曜日

休眠預金法成立

 
休眠預金とは、長期間取引がなく預金者に連絡も取れなくなった預金口座に預けてある金銭のことで、日本では毎年850億円程度発生しています。そのうち350億円ほどは利用者が気づくなどして払い戻されていますが、残りの約500億円の休眠預金が生じています。フランスでは10年間、英国では15年間、韓国では5年間、休眠状態が続くと、預金をしている金融機関外の組織に移管され国の予算などに活用されています。

2年ほど前から国会で審議されていました。休眠預金が発生する原因としては、子供の頃や結婚前などに使っていた口座、亡くなった方の口座などが考えられます。日本で活用しようとしているのは、10年以上手つかずで放置され、なおかつ連絡がつかないものに限定されています。
使われてしまったらもう帰って来ないと思われるかも知れませんが、本人から払い出しの請求があれば払い戻しは可能ということです。

この法律では、銀行口座の休眠預金を預金保険機構に移管した上で、まず中立的な「指定活用団体」に交付します。そこから地域の事情に詳しい財団などの「資金分配団体」を通じて、実際に公益活動をするNPO法人など各種団体に助成や貸し付けを実施することになります。

具体的な使途としては、子どもの貧困対策や若者支援、福祉、地域活性化などということですが、資金分配団体が利権に絡むことのないよう、透明性を確保する仕組みを作り、オンブズマンなどの監視も視野に入れた制度を作る必要があると思います。

特に国民が新たな負担をするわけではないので、不満は出ないと思いますが、カジノや休眠預金など財源確保最優先の政策に少々違和感があります。財源確保のためなら多少のことは目を瞑るということの無いよう、真摯な議論を願いたいと思います。

2016年12月1日木曜日

アベノミクス第4の矢『カジノ』


特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律案というのが今国会で与党が通そうとしているIR促進法案です。カジノとは関係ないように思えますが、この中にカジノを合法化する案が含まれています。

カジノは、中世のイタリアやフランスなどのヨーロッパの王侯貴族が、所有している別荘で行なっていた賭け事を起源としています。カジノという名前はイタリア語で家を意味する言葉を由来としています。現在では、ヨーロッパのみならずアメリカやアフリカ、さらにアジアでも合法化されており、大人の社交場として賑わっています。

カジノを作ることにより、建築業がさかえ、観光に来る外国人のお金が落ち、周辺施設がにぎわい、雇用が生まれるという良い面もありますが、ギャンブル依存症患者の増加や治安の悪化、青少年の心への悪影響などが懸念材料でもあります。

2013年8月のnikkei BPnetによりますと日本人のアルコール依存症は約230万人、ギャンブル依存症は560万人、インターネット依存症は270万人、ニコチン依存症1534万人、そのほか、ゲーム依存とか、処方される睡眠薬や安定剤などの薬物依存、買い物依存、セックス依存など、なんらかの形で依存症の人をすべて合わせると、優に3000万人に達するとされています。

他の諸外国と比べて日本人は依存症になりやすい体質を持っていると考えられます。また、日本ほど治安のとれた国はないと言われますが、外国人が多く訪れることにより治安度も今ほどではなくなる可能性があります。

パチンコはギャンブルではなく遊戯だと言う人はいないでしょうが、日本では競輪や競馬などの公営ギャンブルを除いて賭博=ギャンブルは許可されていません。公営であろと民間であろうと賭博の本質は変わりません。日本でなぜ賭博が許されないのかを考えて見る必要があります。相撲界でも野球界でも賭博に関わったものは追放処分でした。

日本では、お金は汗水たらして稼ぐものという共通認識があります。賭博で儲けた金はいわゆるあぶく銭です。そういうものは身を持ち崩すことにつながるという考え方があります。それを覆してしまう国の進め方は問題が多いような気がします。