2016年12月31日土曜日

人生のサイクル

 
今日でこの一年も幕を閉じます。また明日から新しい一年が始まります。考えて見ると保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学とすべて一年単位で進学、進級して来ました。一年という単位が一つのサイクルであったことがわかります。

社会人になると給料をもらうのは1ヶ月単位というサイクルに変わりますし、人事異動ということになると4月と10月という半年単位のサイクルに変わります。仕事に関しては出勤から退勤までという一日で仕事を片付けるというサイクルになります。土日が休みという職場では、1週間が仕事のサイクルになることも多いと思います。

退職したとたんにそのサイクルが無くなると体調管理が難しくなります。サイクルがあるということは、知らない間に生活のリズムを作っているのです。自由時間ばかりだといつでも出来ると思って、今やらなければならにという気持ちがなくなります。それが良くないということがわかりました。

お寺の仕事というのは、大半が掃除と荘厳と事務仕事です。その間に法務があるという感じですから、普段はルーチンワークと言ってもいいと思います。行事は年間で組まれているものがほとんどです。一般参加タイプのイベントは週、月単位に行なわれているようです。

人生のサイクルは乳児期、幼児期初期、幼児期、学童期、青年期、成人期初期、成人期後期、老年期となるようですが、その中にもいろいろなサイクルがあります。多くのケースで3年が一つのサイクルという見方が定着しているようです。いわゆる種まき、育成、収穫という考え方です。皆さんにとって2017年はどのサイクルになるのでしょうか。

2016年12月30日金曜日

年賀状を出し続けて50年以上

 
やっと年賀状の番になりましたが、プライベートも含めて約400枚です。手書きで対応しようとすれば、丸二日はかかる量です。中学生くらいから年賀状を出していた記憶がありますので、軽く五十年以上出していることになります。お寺は喪中はがきという風習はありませんので、家族が亡くなっても年賀状を出します。家族に変動があったことを知らせる年一回のたよりです。そのため祝意を表す文面ではありません。

仏教では生れて来たものには必ず死が訪れるもので、忌み嫌うことではないと考えます。お釈迦様も親鸞聖人も嘆き悲しむなと言われています。特に浄土真宗では、死は浄土に往って生まれるということで、往生といいます。さとりを開いて仏になるということです。


そもそも喪中はがきというものが始まったのは戦後のことで、一般的になり始めたのは昭和40年代と言います。マナーとかルールではなく風習ですのでしばられる必要はありませんが、几帳面に出される方が多くなりました。お寺の年賀状はお経の一文であったり、親鸞聖人の和讃を使わせていただきますので喪中の方にもお出ししています。

貰われた方は驚かれるかも知れませんが、仏教には忌中や喪中という考えはないので、正しく知っていただくいい機会だと思っています。忌中や喪中には「穢れ」の意味が入っていますので、どちらかというと神道に近い考え方だと思います。ですから仏教でも○回忌と言わずに○回会と言い換えたほうがいいのではないかと思っています。


2016年12月29日木曜日

年末モード

 
年末年始に向けて買い物に出ましたが、どこも年末モードで大賑わいです。普段と同じことをしようと思っても車が多すぎて時間がかかります。食品売り場もお正月商品が幅を利かせていて、値段も高めになっています。灯油売り場は行列となり待ち時間が出来ています。

12月になっても雪が降らないのでその分楽ですが、年が明けたらドカッと来るのではないかと心配しています。年末はお寺にもたくさん参られます。一年間お世話になりましたとお布施やお供えを持って来られる方もお見えになります。こういう時に何かお渡しできるものとしてハンドタオルとかお線香を用意しているのですが、もっとしゃれたものを考えたいと思っています。

お参りされる方の中にもお墓や納骨堂ではなく、本堂で手を合わせられる方があります。みなさん心が落ち着くと言われます。そのためには華を絶やさず、堂内を清浄にしておく必要があります。年末は普段できない掃除をしなければなりません。昔は長時間本堂にいると凍り付いていましたが、今はエアコンがあるので、お磨きも快適に出来ます。

年が変わると言っても人間が勝手に決めたことで、何かが変わるわけではありませんが、一つの節目ということで年内に済ませたいと思うのも分かります。元旦からは三日坊主でもいいので、新しいことにチャレンジする気持ちも大事です。三日坊主も積み重ねれば一ヶ月にも一年にもなります。

残り二日間何が残っているのか分かりませんが、皆さん頑張って下さい。私は年賀状と掃除がまだです。

2016年12月27日火曜日

人はなぜ悩み苦しむのか

 
掲示板に相談できるお寺ですと書いたら、それを見て相談に来る人が少しづつ出て来ました。当たり前といえばその通りですが、普通の家に張り出しても、まず来られないでしょう。お寺だから解決してくれるのではないかという期待を持って門を叩かれるのでしょう。お寺はそういう力をまだ持っています。

相談でも他人をどうにかしたいという場合は、まず解決策はありません。他人の心を変えることは出来ないからです。自分の考えを変えたり、自分が変わることは可能ですから、それによって悩みや苦しみが解決することはあります。

子どもがなく夫婦二人の生活を送っていらっしゃった方でしたが、最近ご主人を亡くされたということで、今の生活に悩んでおられる様子でした。三時間以上かけてゆっくりお話しをお聞きしました。最後に本堂にお参りしましたが、本堂という空間の持っている力はすごいと感じました。お帰りの時には眼の輝きが違っていました。

お釈迦様は人が悩み苦しむのは、思い通りにならないことを思い通りにしようとするところから生まれるものであると言われています。まず、物事をありのままに受け取ることが大切だと言われます。自分の思い通りにしようとするのは、自分の目で見、耳で聞いたことを重視し、それに基づく価値判断をするからです。つまり、自分勝手な見方しかしないからです。

そうは言っても自分は自分だと云われるかも知れませんが、変わらぬ自分なんかはどこにもないのです。様々な影響を受けてコロコロ変わっているのが自分の姿です。その姿がわかればもう悩むことはありません。今は受け入れがたい現実でも、それを受け入れることにことによって、時が解決してくれるでしょう。時は妙薬なのです。

2016年12月26日月曜日

ダークウェブ

 
どこの世界にも闇の世界があるということは知っているつもりでしたが、違法な取り引きが盛んに行なわれていて、いくら検索しても見つからないネット世界のサイトがあるとは思いませんでした。googleやyahooで探しても見つからないということです。また、インターネットエクスプローラーなどの普通のブラウザではたどり着くことが出来ません。

以前院家日記でも取り上げたことがありましたが、2012年に遠隔操作ウイルスで複数のえん罪を生み出した事件がありました。犯人がなかなか特定できなかったのは、「Tor」というソフトを使い海外の複数サーバーを自動で経由し匿名化することで、IPアドレスなどから利用者の所在がわかりにくくしていたものです。

ダークウェブもそういう仕組みを使って誰が犯罪行為の当事者であるかがわからないようにしています。ここでは非合法な販売が日常的に行なわれています。以前タックスヘイブンに関与している企業や個人名がパナマ文書としてネットサイトで公開されましたが、タックスヘイブン自体は違法ではなく、道義的に見てどうかという問題でした。

しかしダークウェブでの情報は違法なものがたくさんありますので、そのデータが漏れればたちまち逮捕につながることもあります。実際にダークウェブにある不倫クラブの情報が洩れて自殺に追い込まれた人も複数いましたし、薬物取引で逮捕された人もあります。

ダークウェブと聞くとどんなものか興味を持つ人がいると思いますが、いくら匿名性があるといっても、いつかはバレるものです。中には登録しただけで犯罪となるものもあります。危ないものには近づかない方がいいと思います。くれぐれも気を付けましょう。

2016年12月25日日曜日

犬と人間の違い

 
お寺の留守番犬リラが来て、もう5年が過ぎました。食事は日に2回で、散歩をしてウンチを1回して過ごします。毎日元気に見えますので、体調の変化に気付くことはありませんが、実は人間と一緒で、体調は毎日変化しています。

はじめての方には必ず吠えますが、10歳以下の子供には吠えません。何度か来ていただくと吠えなくなります。井戸で水をくまれたりして、目的がお墓参りだとわかると吠えません。自分の縄張りをどこからどこまでと意識していて、50メートル離れた駐車場であっても吠えます。

このように知能レベルが高い犬ですが、人間との決定的な違いがあります。帰りが遅くなるときに朝食と夕食を一緒に出すと、いくらこれは夕食用だといっても全部食べてしまいます。つまり夕食用にストックしておくということが出来ないのです。

犬には将来自分がどうなるかを予測する能力はありませんが、人間にはあります。そしていつかは自分も死ぬ運命にあることを知っています。知る方法は二つです。一つは自分の先祖が誰も生きていないということです。そしてもう一つは自分の体が確実に老化していることがわかるからです。死ということを科学的に知らなくても、経験的に体験的に予測するわけです。

人間は4才~7才のころに死を理解するといいます。死はショッキングな出来事ですので、このころの心のケアは大切です。病気で余命を宣告された場合、絶望感に陥ることが予想されます。実際に自死する人もあります。ではなぜ人間はそれを克服出来ているのでしょうか。つまり、どうせ死ぬのになぜ生きるのかということです。

答えは簡単です。日常生活の中では、死ぬことを忘れているからです。いつも死のことを考えていたのでは、生きられないということで、脳がそういう大切なことを忘れるように出来ているらしいです。人間はいつも目先のことを考えるように出来ています。

井上陽水の「傘がない」という歌も端的にそのことを表しています。考えなければならない大切なことがあるけど、今、問題なのは雨なのに傘がないということであるという歌です。ずっとそうであれば悩むことはないのですが、年老いてくると目先のことより死のことの方が比重を増して来るので、悩む日が多くなるというわけです。

2016年12月24日土曜日

吉田拓郎人生を語る


昨夜NHKのSONGSで、10月27日パシフィコ横浜で行なわれた吉田拓郎のコンサートを取り上げていました。ここのホールは5,000人入ります。今はネットでいつでも見える環境にありますので、いろんな時のコンサートを見ていますが、最新映像なのでそれなりに感じるところがありました。吉田拓郎と言えども、それなりに老けたなと思いますが、老いを隠さない所がいいですね。

年をとるということは何にも良いことがないと、憚らずに言ってのけるところが好きです。芸能界は老いを隠していつまでも元気でいるように見せる人の方が多いけど、フォーク系のミュージシャンは年季をもろに見せる人が多いですね。

テレビに出なかった過去を語っていましたが、初めての体験が良くなかったですね。テレビ用にショートバージョンにするということを伝えなかったプロデューサーが悪いのですが、それは嫌がらせだったかも知れませんね。オーケストラとの演奏がずれてしまい、バカヤローと怒鳴られた時は肝を冷やしたでしょうね。

自分のやりたい音楽を、自分流にやって食べて行ける人はあまりないと思います。バックのメンバーを一新した今回のコンサートは、曲目から曲順までこだわった現段階で最高のコンサートだと語っていました。バンドのメンバーが全員歌で参加する「雨の日の情景」などの演出は、昔の拓郎からは考えられませんでした。

「全部抱きしめて」の演奏中に、メンバー紹介が行なわれましたが、TVで放送されたメンバーの吉田拓郎に対するコメントがいいですね。ちなみにパーカションを担当した玉木正昭さんは、寺子屋コンサートの常連ギタリストである玉木孝治さんの弟さんです。

2016年12月23日金曜日

仏教の本質

 
仏教の本質とは何であろうかと考えて見ました。まだまだ僧侶としては駆け出しですので、一気にそんなことがわかるとは思いませんが、何となく他者救済ではなく自己救済のものであると考えるようになりました。自力と他力、悪人正機、往生浄土などはまさにそうだと思えるのです。それと同時に自分の死(未来)を考えるようになった時に、必要となるものであると思います。

ですから現代を前向きに泳いでいる若い人には必要のないものです。無くても生きる上で支障はありません。死を意識するようになって、死が心の多くを占めるようになって来ると、自分は何のために生れて来たんだろうとか死んだらどうなるのだろうというような経験や知識では解決出来ない問題に対峙することになります。

その時仏教が役に立ち、死への不安を打ち消してくれるものだと思います。仏の世界に入るには出家が必要だといいますが、修業をする環境としてはふさわしいものであるというだけで、出家が条件というわけではありません。在家であっても妙好人のような方は他にもいらしゃいます。

仏教は万人のための教えだとは思いますが、一度に救えるのは一人だと思います。なぜなら、その人を救うためにはその人になり切るくらいでなければ救うことは出来ないからです。自己=他者になったとき、自己救済が他者救済になるのでしょう。教義的には違うかも知れませんが、何となくそんな気がします。

このままでは生きていくことが出来ないほど、不安に押し殺されそうになったときに威力を発揮するのが仏教なのでしょう。それまでは役に立たないかも知れません。邪魔になるかも知れません。仏教とは不思議なものです。


2016年12月22日木曜日

宗教ブームとお寺

 
若い人にお遍路さんが流行ったり、パワースポットで人気が出たり、マインドフルネスということで瞑想や座禅、写経などがブームになっています。答申も「自然、身体性を伴う宗教体験が求められる趨勢に対して、真宗らしい対応が必要」と言っています。

親鸞聖人が自力修行を限界まで行い、その結果他力に帰するという境地に至ったのに対し、現在の真宗僧侶は自力を経験せず他力を教義として概念的に理解しようとしているのではないかと考えられます。浄土真宗の特長は門信徒そろっての聴聞にありますので、一般向けの法座体験会を、どこの寺院でも気軽に出来るような仕組みを作って行く必要があると思います。

出来る住職だけが先行するのではなく、浄土真宗のお寺であればどこに行っても体験出来ますというようなイメージを定着させる必要があるでしょう。また、真宗寺院では抵抗があるかも知れませんが、若い人の足をお寺に向けるため、仏教入門編として瞑想やヨガ、写経、写仏、仏像彫刻などの体験教室を取り入れることも考えなくてはなりません。

今までのお寺のイメージである葬儀・法事は非日常であり、それだけではお寺に足を運ぶ機会は数年に一回程度です。それではお寺を身近に感じることはなく、いつまで経っても敷居が高いままです。お寺を日常的に感じていただくためには、このブームを利用しない手はありません。

要するに法話会や講を中心に置きながら、誰もが日常的に足を運びやすい催しを考えればいいということです。子育て支援の一環として本堂を託児所として開放したり、フィットネスクラブやジムを開設いている寺院もあります。寺カフェは一般的になりましたし、コンサートは多くのお寺で取り組んでおられます。

しかし一方ではそういうものには一切関知しないというお寺さんもあります。これからもそれで成り立って行けば問題ないのでしょうが、気づいた時には手遅れということもありますよ。

2016年12月21日水曜日

お寺とホームページ

 
 
再び答申に戻ります。10年、20年後の日本社会で求められる僧侶像・寺院像答申によりますと、「ホームページの無いお寺は、世の中に存在しないお寺として見なされる」と記述してあります。現在はホームページの無いお寺が圧倒的多数です。

企業がホームページをつくる場合、目的は大きく分けて2つあります。
一つ目は、広報宣伝活動です。その企業について知りたい人に、ホームページを通して詳しく情報を提供するということです。もう一つは、営業・販売のためです。ホームページを通して、店に来てもらったり、商品を買ってもらったりするということです。どちらにせよ、ホームページが得意な分野は、不特定多数を対象にした活動です。

例外的には、すでに顧客になっている人に対して、紙媒体で送るべきものをホームページで閲覧してもらったりすることや、会員向けにダウンロードできる書式や音源、画像などをホームページで、保管する場合があります。

ですから檀家制度に乗っかって活動する場合は特に必要のないものです。しかし檀家制度が崩壊し、誰もが自由にお寺を選べる時代になると、自分のお寺がどんなお寺であるかを世間にアピールして行かなければならなくなります。

その時に備えて今から準備しておきなさいということだと思いますが、それより先にすべきことがあると思います。それは自分のお寺の特長を捉えたパンフレットを作ることです。お寺でホームページを作らなくとも、必ず誰かがお寺を比較したホームページを作ります。

今の価格コムやぐるなびみたいなものです。そしてサイトによっては、お寺に☆☆☆を付けることになるかも知れません。例えば評価項目はこういう感じです。①お寺の敷居の低さ②設備の充実度・使いやすさ③通夜・葬儀のやりやすさ④接待・サービスの充実度⑤研修会など教化活動の充実度⑥イベントの豊富さ⑦会計の透明性⑧情報発信の豊富さ⑨寺院の永続性⑩住職の人柄など多数考えられます。

一旦こういうサイトが出来ると、お寺としては手の打ちようがありません。そういう意味では、今からこれらに対して準備をしておく必要があるということです。先日問題となったDeNAのように、偽物を寄せ集めたようなサイトもありますので、見極める目を持つことも必要です。

2016年12月20日火曜日

本当はもらったいのち

 
体調が悪くなっていたとき思ったことは、自分の体なのに何故思い通りにならないのだろうかということです。眠りたいと思っても寝られず、ここで吐いてはダメだと思っても体が勝手に反応してしまいます。自分の意思とは全く関係ありません。

考えて見れば心臓も意思と関係なく動きますし、寝ている時でも肺は呼吸をして血液に酸素を送っています。血液は体中に張り巡らされ、心臓や肺もそのおかげで動いています。脳も血液が届かなければ生きていくことは出来ません。それらは脳でコントロールされているのではなく、細胞時代からその役目を担っているのです。

自分の体だと思っていますが、実は自分の意思で出来ることは全くなく、すべて整えられ準備された上で最後のところを動かして自分がやったと思っているだけなのです。病気になって自分の思い通りに出来ることが無くなった時に初めてそのことに気付くのです。

けがや感染症などの場合を除いて、病気になったら無理に早く治そうとせず、体が持っている治癒力に任せて見るのも良いことかも知れないと思いました。なかなかそれを許してくれない環境がありますが、病気を理由に休めばいいと思いました。絶対に自分でなければならないことなど世の中にはそんなにありません。

病気なったらジタバタせず、自分のいのちと向かい合って不可思議なことに思いを巡らすことをお勧めします。自分の体がいとおしくなると同時に、元気になったら自分のいのちをつまらないことに使ってはいけないと思うようになります。これこそさとりへの第一歩だと思います。

2016年12月19日月曜日

急性胃腸炎

 
一昨日のことです。晩御飯を食べてから少し胃のあたりに違和感を感じたので、風邪のひきはじめかなと思って風呂は控えました。11時ごろには就寝しましたが、午前0時過ぎに急に吐き気を催し、かなりの量嘔吐しました。それによって幾分かすっきりしましたが、まだむかむかが残っていて眠れませんでした。

次は多分3時ごろだったと思いますが、再び強烈な嘔吐感がありこのときは胃液まで吐いてしまいました。その後はトイレに通うこと数回でした。嘔吐は胃の変調、下痢は腸の変調ですから、これは急性胃腸炎ということになります。胃の痛みは周期的に起こるもので、過去にも経験したことのある痛みでしたので、ある意味安心でした。

朝まで一睡も出来ず日曜日を迎えました。この日は連研の当番に当たっていましたので、開会時の会所住職あいさつと午後からの2時間の講義をやり切ることに集中して、他の時間は休息をとることに使おうと決心しました。家族は反対しましたが、人の前に立ってダメな時はその時と思いました。

もちろん朝食、昼食はのどを通りません。脱水症状の現れで口が乾くのでスポーツ飲料をホットにして少量ずつ飲むように心がけました。他のお寺さんが来られても最小限の挨拶だけにし、あとは居間で横になってすごしました。会所寺院の挨拶は手短に済ませて、午後の講義に備えました。

このときに考えたことは、お釈迦様の涅槃でした。お釈迦様は旅の途中で信者から食事の施しを受け、食あたりで体調を崩され、そのまま死に至ったと言われています。こういう状況で死ぬのはイヤだなと思いました。人の死の状況は選べませんが、死の瞬間は脳内麻薬が出て安らかなのかなと考えたりしました。

もう一つは談志師匠の病気を押しての高座を思い出しました。テレビでしたが高座にひとたび上がれば最高のものを見せるという気概を見せていただきました。そこまでは行きませんが、精一杯やろうと思いました。おかげで何とか無事終えることができました。

ただ、午後4時から予定されていた護持会の望年会には参加出来ませんでした。参加された方からLINEで美味しいご馳走を見せていただきましたが、よだれも出ませんでした。今日は少し体調が戻り、朝はおかゆをいただきました。昼は抜いて夜何を食べようかと思っています。うどんすきくらいがいいところでしょうか。

2016年12月17日土曜日

本山離れをいかに食い止めるか

 
次のテーマは本山として寺院の単立化をいかに防止するかということです。様々な理由により宗派を離れ単独で宗教法人となるお寺を単立化と言います。本願寺派からは具体的な数字が出ていませんが、このテーマが答申に載るということは、実態があるということでしょう。

宗派を離れる一番大きな理由は賦課金とか懇志の要請などの経済的なものだと推測されます。お寺の収入が減って行く中で賦課金制度のあり方も再検討される時代に入ったと思えますし、事業のたびに高額な懇志を末寺が負担するというやり方も考え直して行かなければならないと思います。

お寺によっては本山懇志もご門徒さんに割り振っておられるところもありますが、私のところは門徒会館建築にご懇志をお願いしたところでもあり、数年かけて寺院会計から捻出したいと考えています。鳥取因幡組の予算も昨年から大幅に減額して活動を続けています。

宗派に所属するメリットを棚卸しするということですが、普段意識しないメリットよりも、スケールメリットを生かした教育研修をお願いしたいと思います。右肩上がりの時代はどんぶり勘定でも成り立ちますが、お寺が選ばれる時代になりますと最低限の経営ノウハウは必要となります。

お寺の運営管理については、文化庁の実務研修会に任せるのではなく、本山が主導して行くべきです。宗教法人と言っても収入と支出のバランス感覚は中小零細企業と一緒ですから、会計・経理や門徒拡大のためのノウハウ、関係法令、登記関連、門徒管理業務、パソコン関連などについて研修会を持っていただきたいと思います。それこそが宗派に所属しているメリットではないでしょうか。

2016年12月16日金曜日

お寺のコミュニティ化

 
次にあげられているのが、お寺を人が集まり話し合いができる場にしようということです。もともとお寺は説教を聞く場であると共に、芸能文化を楽しむ場であったり、市が立つ場であったり、勉学をする場であったり、情報発信する場であったわけです。江戸時代の寺請け制度により、檀家となりその家の法事や葬儀を受け持つことになったころから、活動の中心が葬祭関係に移行して来たようです。

もちろん現代でも地域に向けてコンサートや落語会、ヨガ教室、写経、瞑想など様々な活動をしている寺院はありますが、圧倒的に少数です。それはノウハウがないことと同時に、スタッフ不足もあげられるでしょうし、時間が取れないことも一因だと思います。お寺だけで食べていくことの出来るところは限られており、多くは兼業です。そうすると平日は仕事で、土日に法務をこなすことになります。コミュニティ化することは物理的に困難です。

自分のお寺で考えて見ても、そういう活動が出来るのは退職してからが中心です。兼業では無理、高齢化してからは無理ということになると、退職してから70代くらいまでの20年足らずが活動期間ということになります。それを無理のない形でバトンタッチして行かなければならないと思います。

収入は法務で確保し、活動は社会還元というのも一方法ですが、継続的にやって行くのであれば、活動に伴う収入があってもいいと思います。法務による収入は寺の維持管理に回し、活動自体で収支トントンになるようなことを目指すべきではないでしょうか。更には活動が収益を生むようなことになれば理想です。

答申でもお布施以外に収入の柱になるようなものを作ることが必要だとありますが、宿坊や保育園、幼稚園のような形態であれば可能かも知れませんが、収入の柱を新たに作ることは難題だと思います。ただし、小さなコミュニティを集約することで副収入の道を探ることは可能だと思います。お寺の空間、時間を利用することで収入の道を探って行きましょう。

2016年12月15日木曜日

お布施の問題

 
アマゾンのお坊さん便がネットで話題になって、再びお布施の問題がクローズアップされましたが、常に話題になる事柄です。ネットでは高いお布施を要求されたとか、言葉ではいくらでも結構ですと言いながら、一度払ったお布施を、突き返されて上乗せさせられたなど悪い話しばかりが聞こえます。

少なくとも私の周りにはそんなお寺はありません。逆に実費(花代、交通費、会場費)にもならないようなお布施だったという話しは、たまに聞きます。また、アマゾンを下回るお布施は、珍しくないのが実態です。定額の方がわかりやすくていいという話しも聞きますが、お布施の意味が知られていないためだろうと思います。

どこの業界でもそうだと思いますが、1,000人に一人くらいの割合で悪徳の人がいますと、そのことばかりが独り歩きし、全体が悪印象になってしまいます。運悪くそういう人に当たったなら二度と利用しなければ良いわけです。お寺は勝手に離れることは出来ないと思っておられる方がありますが、トライして見る価値はあります。

信教の自由(宗教の自由)とは、特定の宗教を信じる自由または一般に宗教を信じない自由をいうと憲法に規定されていますし、国際規約でもすべての者は、思想、良心及び宗教の自由についての権利を有すると謳われています。

お布施は寄付の一種ですから、強要されるものではありませんが、少なくともお寺を維持するだけのお布施がなければ、お寺は潰れてしまいます。潰れていいということであれば、お布施の額について話す必要はないと思います。

概念としては、潰れては困るという人が集まって作られているのが檀家ですので、檀家にはお寺を護持する義務があると考えられます。同様にお寺には檀家の人が期待する活動に応える義務があると考えられます。今はお寺に期待する活動の一番は葬儀になるでしょうから、檀家の方が安心して任せられる葬儀を執り行うことが第一義務でしょう。

早晩檀家制度は崩壊しますので、その時に地域の人々から潰れては困るお寺になっているかどうかが明暗を分けます。今の30代40代の方は生涯賃金が激減する予測が出ていますので、お寺を選ぶ目もシビアになって行くでしょう。

2016年12月14日水曜日

家族葬の増加とお寺での葬儀

 
次の外部環境の変化は葬儀の問題です。近年は様々な要因により、参列者が100人を超えるような葬儀が少なくなり、二親等までで行うような小さな葬儀が少しづつ増えて来ました。家族葬という言葉の定着により、少人数での葬儀であっても引け目を感じることなく行われるようになりました。少人数だから費用が少なくて済むというわけではありませんが、それについては別の機会に述べます。

家族葬になると、司会がなくても不都合はありませんので、葬儀社の方との打ち合わせより、ご遺族やご親族との打ち合わせが多くなり、顔を見ながらの話し合いが増えます。その時に故人のお話しを聞く機会が増え、法話に生かすことも可能になります。参列者も来賓に気を取られることが無くなりますので、僧侶に注目が集まります。心から喜んでいただける葬儀にできる可能性が広がります。

そして家族葬規模になれば、駐車場、下足箱、参拝者控室、トイレ、お茶の接待など一連の流れがお寺で可能となります。規模が小さくなることで、葬儀社から2~3名のスタッフを助っ人で入れていただくことにより寺族で対応できる環境が整います。

本堂での通夜や葬儀は改めて荘厳壇を作らなくても、通常の荘厳に少し手を加えるだけで対応出来ます。そして複数の葬儀を行なうことがありません。お参りの方は全て一人の人の弔問に駆けつけた方ですので全体的に一体感が生まれます。

結果的に費用も少なく済みますので、ご遺族の方にとっては満足できる葬儀となります。どこのお寺でも現状で全て出来るというわけではありませんが、お寺の葬儀をやることによって改善点が見つかります。そこを改良することによってハード面もソフト面も価値が高まると思います。今こそお寺での葬儀に一歩踏み出す時だと思います。

2016年12月13日火曜日

寺院会計のあり方

 
次にあげられているのが、「適切な会計、各種規約の整備等、寺院運営の近代化の必要性」です。この文面を見るだけで今の時代に近代化が必要とは、お寺はどれだけ遅れているんだと思ってしまいます。

前住職の時代を振り返って見ますと、食べるのに精一杯ということもあったでしょうが、賃貸の下宿人を置いたり、貸倉庫業、貸車庫、貸販売会場などをやっていました。今で言う宗教法人の収益事業です。税務がどうなっていたのかは分かりません。

お寺の会計もどんぶり勘定でした。宗教法人という概念はなく、教師としての収入+お寺の収入が住職の収入という感じでした。ですからお寺の収入がないときは赤字会計だったと思います。ただ、お米や野菜がお布施の中心でしたから食べるものには困らなかったと思います。

現在は宗教法人法に基づき会計処理をしていますし、毎年の決算や財産目録、役員名簿は監督官庁である県に提出しています。住職の収入は毎月宗教法人からいただく給与です。サラリーマンと同じように所得税、住民税、社会保険料を納めています。

また、宗教法人の決算内容は護持会運営委員会で公開していますし、門徒さんからの開示要求があればいつでも公開します。これを見れば収入と支出のすべてがわかります。私が36年間全労済という生活協同組合に勤めており、会計経理を担当していたこともありますので、税理士を頼まなくても日常の会計処理は自分で出来る点が大きかったと思いますが、これからの寺院は中小企業並みの会計処理を求められると思います。

また、寺院規則や墓地管理規約、納骨堂管理規約、境内建物管理規約など従来住職の頭の中で行なわれて来たことも明文化しておかなければならないでしょう。特に檀家制度が崩壊すると今まで以上に様々な経歴を積んだ方が出入りされますので、いままでの寺檀関係で済ますというわけには行かなくなります。この提言はもっともだと思われます。

2016年12月12日月曜日

寺院と公益性

 
答申書にはお寺を巡る外部環境分析として一番目に「公益的な寺院運営を望む社会的要請の高まり」をあげています。この問題は、宗教団体が税務上で優遇を受けていることに起因しています。逆に言うとなぜ宗教団体は優遇されているのかということを知らなければどう対処していいのか分かりません。

このことを知らないと宗教団体は公益活動をしているから優遇されているのだろうと勘違いをすることになり、それならば一生懸命公益活動をしましょうということになります。全国で約7万5千と言われている寺院の大多数は公益活動を行なっていません。行なっているのは宗教活動です。

実は宗教活動自体に公益性が含まれていると考えられています。宗教は社会全体に精神の安定をもたらし、人間の道徳・倫理の根幹を提供しているというのがその理由です。

反論する人は、お寺は檀家組織で成り立っているのだから檀家のための活動であり公益性はないと言うかもしれません。確かに多くのお寺は檀家制度で成り立っていますが、基本的に加入脱退は自由です。信教の自由が保障されています。ですから今は関係ない人でも将来お寺にかかわることは可能です。すべての人に門戸は開かれていると捉えるべきだと思います。また近い将来檀家制度は崩壊しますので、加入脱退の自由はもっと明らかになるでしょう。

一般の方はそういう背景を知りませんので、お寺に公益性を求めているのだと思います。公益性の具体例をあげますと寺院墓地や境内には無断で入っても罪に問われることはありません。もっともお寺であっても個人の住宅部分は住居侵入罪に問われます。

公益性については、宗教活動を飛び越えて公益活動を行う必要はありませんし、宗教活動が本来の活動ですので無理をする必要はありませんが、今後孤立する人が増えてくる地域社会にあっては、地域になくてはならない寺院活動の在り方を考えていく必要があると思います。

2016年12月11日日曜日

20年後の僧侶像

 
浄土真宗本願寺派が所属寺院あてに発行する「宗報11・12月号」に宗門総合振興計画の一環としての提言『10年、20年後の日本社会で求められる僧侶像・寺院像答申書』が掲載されました。各寺院に届いたのが3日前ですので、まだ目を通していないお寺も多いのではないでしょうか。

その扱いですが、住職はこの答申を「我が寺・我が事」として受け止め、所属僧侶や寺族、門信徒に紹介し、内容について話し合い、意見がある場合には報告することとなっています。この宗報というのは、組織内部の公式連絡用通信誌のような位置付けであり、内容を門信徒まで広げて話し合うと言うのは異例のことです。

私が気になる点は順次アップして行きたいと思いますが、まず答申が出された背景について抜粋して記載します。

【戦後、核家族化が進み、さらに近年では単身世帯が増加し、家を継承するという家族のあり方は急激に減少してきた。また、都市部への人口移動が進み、過疎地では、地域社会の維持が困難になってきている。これからの時代に、いかにしてご法義を相続していくか。ご門徒の次世代も、これまでと同様に寺院との関係を持つことを期待できず、寺檀制度がいよいよ崩壊を目前に控えた今、ご門徒に対してはもちろんのこと、各寺院にご縁のない方々に対して、いかに働きかけていくのかを考えることは、宗門だけの問題にとどまらず、伝統仏教の全ての宗派に共通する喫緊の課題である。】

【これからは、僧侶も人も選ばれる時代になるといわれる。逆にこれまでは、門徒は固定の所属寺との間で義務的な関係にあった。義務教育のように、御法座への参拝や仏教婦人会等への参加を始め、葬儀にしても法事にしても、先例通りにするのが当たり前であり、そうせねばならないものとしての意識があった。だが今後は、義務から選択へと寺院と門徒の関係の動機が変化する。すなわち、この僧侶ならこの寺院ならと言うように、自身にとって価値を感じるか否かに従って、僧侶か寺院を選ぶ時代になると言う。様々なところで指摘されるこの見立ては、正鵠を射ている。これからの時代は、僧侶や寺院が、まずは社会から求められることに応えられなければ、法統の継承は困難なものとなる。逆に言えば、その期待に応え続ける中でこそ、ご法義は相続されうるであろう。】以下明日へ続く

2016年12月10日土曜日

地震災害見舞金が送られて来ました

 
10月21日の鳥取県中部地震で被害に遭われた鳥取因幡組の寺院に対して山陰教区教務所より見舞金が組長宅へ現金書留で送られて来ました。現金の方が誠意が伝わると言うことかも知れませんが、不正が行われる可能性があるやり方だと思ってしまいました。

鳥取因幡組では災害見舞金規程の給付基準に該当する災害があった寺院は、二ヵ寺でしたが一ヵ寺は私が写真を撮り、給付申請も簡単だったので私がやりました。サラリーマン時代保険関係の協同組合に勤めていましたので、請求関係は比較的慣れていました。

今回の給付は規程による見舞金のほかに、全国各地から寄せられた支援金を元に規定外の見舞金も送られて来ました。見舞金の受領書は私の押印で良いそうですので、被災寺院からは教区に届くものはありません。この仕組みも良くないと思いました。架空請求があった場合の防止は不可能です。

僧侶がそんな悪いことをするはずがないという性善説に基づいたものかも知れませんが、サラリーマン時代に多くの不正事件を見て来ました。どんな人でも切羽詰まると悪事に手を染めることがあると思います。ましてやお金の問題ですと出来心ということもあります。

私の出向先でのことですが、仕入れの代金の支払いは通常は納品伝票と請求伝票をもとにした振込ですが、部門責任者が納品先に行くついでがあるから現金を持って行くという例がありました。持って出た現金を全て渡さずに、今月は資金繰りが厳しいのでという理由で一部しか払わないことがあったそうです。つまり残りはポケットにということです。

そのままだとすぐにばれますが、翌月以降やりくりすれば長期間不正が発覚することはないということです。その他にも手口はいろいろありましたが、全て現金での扱いがもとでした。まさかこの人がということばかりでした。親鸞聖人もおっしゃっているように、環境や条件が整えば誰でも悪事に手を染めてしまうということです。そうなっていないのは縁がないだけであり、喜ぶべき状態にあるということです。

ですから、私達に出来ることは不正を働く可能性のある環境を作らないことです。そのためにも現金書留での送金という方法は、早く無くして欲しいものです。

2016年12月8日木曜日

除夜の鐘が消えてゆく


日本人をあらわす言葉に、クリスマスを祝い一週間後に除夜の鐘を聞き、正月には神社で初もうでをするという節操のなさを指摘する言葉がありますが、宗教というより風習のようなものだと思っていました。

ところが近所からのクレームで、除夜の鐘を止めるお寺が少しづつ増えています。東京・小金井市 にある、100年 以上の歴史を持つ『千手院』は、住宅街に囲まれているお寺ですが、近隣からの苦情で『除夜の鐘』の中止を決めたと言います。また、静岡県牧之原市にある、450年以上の歴史を持つ大澤寺も近隣の方からのクレームにより『除夜の鐘』をやめたそうです。

住みにくい世の中になったと思いますが、除夜の鐘の意味を説いたり、大切な風習だと言ったところで、そんなものは自分には関係ないと言われれば引き下がざるを得ない気もします。それに遠くから聞こえる鐘であれば風情があって良いと言えますが、すぐ近くで響きが伝わるとなると我慢して下さいとも言えません。

奥ゆかしい日本人が、嫌なことはイヤですと自己主張出来るようになったのかも知れません。それは良いことだと思いますが、そういうことが拡大解釈され、過剰反応になっては困ります。現代は24時間生活社会ですから、正月でも早朝から仕事をする人もありますから、そういう人にとっては深夜の鐘というのは迷惑かも知れません。

一人でも反対があったらやめるのか、あるいは多数決で押し切るのか、難しい面がありますが解決策は必ずあると思います。昼に鐘をつく『除夕の鐘』というのも一方法ですし、音を抑えて参加者だけが味わうというのも一つの方法だと思います。みんなで共存共栄できる方法を考えていくのもいいと思います。寂しくない世の中にしたいものです。

2016年12月7日水曜日

出先でのブログ更新

 
自宅でブログを更新するのはパソコンを使っているので簡単ですが、パソコンの使えない環境で更新するのは一苦労です。ブロガリはスマホ対応なので、キーボードがパソコンより使いにくい点以外は、ほぼ同じように使えます。入力画面もスマホ対応になっているところが便利です。ただスマホによるコピーや貼り付けに関しては範囲指定が微妙に難しくて、いつも手間取ります。

一方googleのbloggerは入力画面がスマホ対応になっていないので、別のアプリを使って入力することになりますが、まだいいアプリに巡り合っていないので見合わせています。昨夜の病院ではWifiが使えたので、ipadを使ってパソコンと同じ入力画面で作成することが出来ました。あとで仕上がりを見ると、文字が最小になっていたり、文字色がグレーになっていたりしていました。デフォルテの仕様がパソコンと違うようです。

私の場合ホームページは、ホームページビルダーで作成し、ブログは別のところにリンクさせて使っていますので少々変則です。独自ドメインも持っていますので、ワードプレスを使ってブログ込みのホームページを作りたいのですが時間がありませんし、封筒などの印刷物を差し替えなければならないので、見合わせています。

ブログのアドレスを変えるのでも2か月間は同時更新していますので、ホームページを引っ越すことになるともっと大変だと思います。年末年始で時間が取れればやりたいと思っていますが、孫が遊びに来ることを思えば自分の世界に閉じ籠ることは出来ません。また1年延ばすことになるのでしょうか。

2016年12月6日火曜日

入院の付き添い

 
先日から母の下肢の腫れがなかなか引かないので先生に診てもらったところ、いつもの飲み薬だけでは足りないので、点滴をして血液の流れを良くしましょうということになり、入院することにしました。4年前の12月に静脈血栓症という病気になり、1ヶ月ほど入院したことがあったのですが、それ以来の入院です。いわゆるエコノミークラス症候群という病気で、体をあまり動かさないために血液が固まる病気です。

飛行機の狭い席に同じ姿勢で長時間乗ることからつけられた名前ですが、地震を避けるため車中で寝泊まりする時にも発生することで有名です。母の場合は風邪を引いて丸一日寝ていたことが引き金となりました。ごく短時間で血栓ができる事もあり、血栓が心臓に飛んだり脳に飛んだりすると命に関わる事もある怖い病気です。

このたびは右下肢が腫れましたが、初期は左足が腫れることが多いようで、4年前は左足全体でした。その後は、ワーファリンの調整で上手くいっていましたが、先週金曜日に4年ぶりに腫れと痛みが出ました。

薬は飲んでいましたので原因は不明ですが、以前と同じ12月ということですから季節や環境と関係あるのかも知れません。ということで、今日は7月に叔母に付き添って以来の病室での泊まりとなります。


2016年12月5日月曜日

年回忌法要の未来

 
親族で行った法事に参加出来なかったので、改めて宝塚からお参りに来られたご家族がありました。お父さんの十七回忌でしたが、都合が合わなくて欠席したため気になっていたようです。ところがたまたま鳥取に用事が出来たという事で喜んでお参りされました。

最近は十七回忌くらいになると一家族だけのお参りという事も多くなりました。一方、五十回忌までは、必ず親族に声をかけ、一族の絆を確かめる機会にしておられるご家族もあります。そういうことは、施主の方が伝えて行かれるかどうかにかかっています。

また、仏事の作法についても家族によって随分違いがあります。お寺の方からしきたりを伝えた方が良いのかも知れませんが、お布施に関する部分は伝えにくい事もあります。浄土真宗はしきたりが少ない方だと思います。例えば、添え法事はありませんし、塔婆もありませんのでお布施以外に包まれる必要はありません。

お布施とは別にお膳料や車代、お菓子代、お花代などを包まれる方もありますが、それらは任意のもので、必ずしなければならないものではありません。当山では全てお布施として預からせていただきます。

お布施は住職へのお礼や給与ではなく、全て宗教法人会計へ入金されるものです。そして、寺院を維持するための費用として使われるものです。一般的に葬儀のお布施が高いと感じられることがあるかも知れませんが、これらは伽藍の修理や建て替えのための資金として使われるものです。企業で言えば減価償却費用となるものですので、精一杯のご協力をお願い致します。

2016年12月4日日曜日

お寺は信仰の対象か?

 
昭和43年に高校を卒業したメンバーが門徒会館に集まって卒業50周年の同窓会を2年後に行なうための相談をしました。全部で15クラスあったので、20人ほどが集まりました。門徒会館を見て、いいところがあるなあと感想が漏れました。

自然とお寺の話しになり、色々あって檀家を代わったと言う話しや、親の葬儀で苦労した話しなどが出ました。この年代になると、死の話しや葬儀の話しを避ける人はいません。さすがに信仰の話しまでは出ませんでしたが、同級生に僧侶がいるということは心強いと言われました。

その心は、自分のお寺の和尚さんに聞きづらいことでも、同級生であれば本音で相談できるというものでした。やっぱりお寺は敷居が高いのだなと思いました。この世代までは、親と同じようにお寺と付き合って行くという姿勢が見えますが、自分の子どもたちにそういうことを継がせようとは思っていないようです。

消滅可能性自治体が全体の三分の一存在するという話しは、2040年のことですが、われわれの世代の半数以上が死亡する時期と重なっています。85歳になるのがあと18年後の2034年です。そこから加速度的に亡くなって行くでしょう。

人口減少が全ての産業に影響を及ぼし、寺院も消滅の危機から逃れることは出来ないと思います。檀家の視点で見ると、葬儀や法事の機会が減り、高齢化によりお盆や彼岸などの年中行事と関わる活動が出来なくなって行きます。そして寄付や護持会費などの費用負担が重くのしかかってくるようになります。

お寺から見ると檀家が減少し、経済的に苦しくなりますが、かといって兼職できるような環境にはありません。後継者選びが困難となり、総代などのなり手が無くなり、寺院としての要件を満たすことが難しい時代になるでしょう。お寺との結びつきが信仰にあると言う人は5%しかいません。95%の人はお寺が無くなっても困らないとも言えます。

信仰の問題を掘り起こさない限り、寺院消滅の根本的な問題は解決しないと思います。

2016年12月3日土曜日

お寺の暖房

 
つい先日は源佐さんで著名な青谷町の願正寺さんで連研⑧が行なわれました。本堂は広く11月末という時節も相まって暖房なしではいられない寒さでした。本堂には6台のガスストーブが設置されており、百数十畳の本堂もほっこりとした温かさに包まれました。何でも地区にプロパンガスの供給所があるそうです。普段とガスの使う量が違うということで途中で自動的にストップするというハプニングがありましたが、復旧するとまたすぐに温かくなりました。

当山の本堂は内陣もあわせて70畳ほどですので、エアコンと大型ファンヒーター2台で24度くらいにはなります。以前はファンヒーターが強のままで18度くらいまでしかなりませんでしたが、床を外断熱したのと、窓をペアガラスにしたので随分暖かくなりました。

冬の暖房で大切なのは、換気に注意しながら気密性を高くするということです。 伝統的な日本家屋は夏は良いのですが、冬の寒さに弱いという欠点があります。それを補って余りあるのがこたつです。こたつは人をダメにするくらい気持ちいのですが、本堂にこたつというわけには行きません。

気密性を高めるためには、隙間風が入らないように目張りをすることと、窓ガラス一枚の場合は、内側にカーテンをするなど外気と直接ふれる場所を少なくすること、見てくれを我慢して外断熱をすることだと思います。

そしてエアコンでもストーブでも下から温めるということと、天井の暖かい空気をサーキュレータなどでかき混ぜることが必要です。以上のことをこまめにやることで、今までよりずいぶん暖かくなると思います。

2016年12月2日金曜日

休眠預金法成立

 
休眠預金とは、長期間取引がなく預金者に連絡も取れなくなった預金口座に預けてある金銭のことで、日本では毎年850億円程度発生しています。そのうち350億円ほどは利用者が気づくなどして払い戻されていますが、残りの約500億円の休眠預金が生じています。フランスでは10年間、英国では15年間、韓国では5年間、休眠状態が続くと、預金をしている金融機関外の組織に移管され国の予算などに活用されています。

2年ほど前から国会で審議されていました。休眠預金が発生する原因としては、子供の頃や結婚前などに使っていた口座、亡くなった方の口座などが考えられます。日本で活用しようとしているのは、10年以上手つかずで放置され、なおかつ連絡がつかないものに限定されています。
使われてしまったらもう帰って来ないと思われるかも知れませんが、本人から払い出しの請求があれば払い戻しは可能ということです。

この法律では、銀行口座の休眠預金を預金保険機構に移管した上で、まず中立的な「指定活用団体」に交付します。そこから地域の事情に詳しい財団などの「資金分配団体」を通じて、実際に公益活動をするNPO法人など各種団体に助成や貸し付けを実施することになります。

具体的な使途としては、子どもの貧困対策や若者支援、福祉、地域活性化などということですが、資金分配団体が利権に絡むことのないよう、透明性を確保する仕組みを作り、オンブズマンなどの監視も視野に入れた制度を作る必要があると思います。

特に国民が新たな負担をするわけではないので、不満は出ないと思いますが、カジノや休眠預金など財源確保最優先の政策に少々違和感があります。財源確保のためなら多少のことは目を瞑るということの無いよう、真摯な議論を願いたいと思います。

2016年12月1日木曜日

アベノミクス第4の矢『カジノ』


特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律案というのが今国会で与党が通そうとしているIR促進法案です。カジノとは関係ないように思えますが、この中にカジノを合法化する案が含まれています。

カジノは、中世のイタリアやフランスなどのヨーロッパの王侯貴族が、所有している別荘で行なっていた賭け事を起源としています。カジノという名前はイタリア語で家を意味する言葉を由来としています。現在では、ヨーロッパのみならずアメリカやアフリカ、さらにアジアでも合法化されており、大人の社交場として賑わっています。

カジノを作ることにより、建築業がさかえ、観光に来る外国人のお金が落ち、周辺施設がにぎわい、雇用が生まれるという良い面もありますが、ギャンブル依存症患者の増加や治安の悪化、青少年の心への悪影響などが懸念材料でもあります。

2013年8月のnikkei BPnetによりますと日本人のアルコール依存症は約230万人、ギャンブル依存症は560万人、インターネット依存症は270万人、ニコチン依存症1534万人、そのほか、ゲーム依存とか、処方される睡眠薬や安定剤などの薬物依存、買い物依存、セックス依存など、なんらかの形で依存症の人をすべて合わせると、優に3000万人に達するとされています。

他の諸外国と比べて日本人は依存症になりやすい体質を持っていると考えられます。また、日本ほど治安のとれた国はないと言われますが、外国人が多く訪れることにより治安度も今ほどではなくなる可能性があります。

パチンコはギャンブルではなく遊戯だと言う人はいないでしょうが、日本では競輪や競馬などの公営ギャンブルを除いて賭博=ギャンブルは許可されていません。公営であろと民間であろうと賭博の本質は変わりません。日本でなぜ賭博が許されないのかを考えて見る必要があります。相撲界でも野球界でも賭博に関わったものは追放処分でした。

日本では、お金は汗水たらして稼ぐものという共通認識があります。賭博で儲けた金はいわゆるあぶく銭です。そういうものは身を持ち崩すことにつながるという考え方があります。それを覆してしまう国の進め方は問題が多いような気がします。

2016年11月30日水曜日

終活ブームに思う

 
今年も十二月を残すだけとなりました。仕残したこともたくさんありますので、12月だけで全部は出来ません。多くは毎年と同じように翌年に繰越すことになります。それでいいのだと思います。同じように、生きている間に出来なかったことは、死んでから考えることにしましょう。

ところで終活ブームと言われて久しいのですが、終活にはブームはそぐわないと思います。ブームがあろうと終わろうと、死への心の準備期間はあった方が良いと思います。不慮の事故や突然死の場合は、それも叶わないことがあります。

では、いつから心の準備をすればいいのでしょう。仕事の停年を迎える65歳くらいからが良いのではないかと思います。漠然と自分の死を考えて下さい。まず、自分がどうして欲しいかを明らかにすることが必要です。特に無駄な延命治療をどうするかということも。

何人かの人の相談を受けたことがありますが、うまく伝わっていなかった例が少なからずあります。どういう葬儀をして欲しいのか、葬儀には誰を呼んで欲しいのか、費用はどうすればいいのかなど、次の世代に伝わっていませんでした。

自分の気持ちを書面で複数のキーマンに伝えておく必要があります。また、生活している場所に紙を貼っておくという手もあります。とにかく発信することです。私もエンディングノートをそろそろ書き始めようとしています。

今回のブラジルの飛行機事故を見て、人生は何があるかわからないということをひしひしと感じています。

2016年11月29日火曜日

寺院のIT化

 
寺院は一般の企業とは違うという概念を持っておられる方も多いと思いますが、法律上は宗教法人という法人格を持った団体です。いわゆる本山など上部団体に所属している寺院が74,217ヵ寺あり、単立寺院が2,560ヵ寺あります。営利を目的としていない法人ですので、税法上優遇されている部分があります。法人税や固定資産税が非課税であるというのが代表的なものです。

ただし駐車場経営などをやりますとその部分に関して固定資産税と共に法人税もかかるようになります。また、専従者の給与などは一般企業と同じように所得税、社会保険料なども負担しなければなりません。私の経験では会社法人との大きな違いの一つは、社員教育の部分だと思います。

私の所属する宗派では、個人情報保護法、セクハラパワハラ、交通安全、ITなどの研修が行われることはありません。個人単位で勉強しなさいと言うことかも知れませんが、全体的には低レベルで推移しています。いまどきお金のやり取りに、現金書留が重視される企業などはないでしょう。

現金でのやり取りは不正が起こる可能性がありますし、お金が移動した経過をたどることが出来ないという欠点があり、現在は金融機関経由による取引が当たり前になっています。寺院間で未だに現金が幅を利かせている最大の理由はIT化が全く進んでいないという現状があります。

研修もされていない中では音頭を取る人もなく困難だと思いますが、誰かがどこかでやらなければならない課題だと思っています。例えば企業では用紙はA4版に統一されていると思います。ワープロソフトや表計算ソフトの基準も統一されているでしょう。整地されて初めてIT化を進めることが出来ます。

私の属する団塊の世代は、40才代後半から職場にITの波が押し寄せ、紙からメールによる添付ファイルへと変わり、連絡はほとんどメールで行なわれるようになって行きました。簡単な研修は個人単位でパソコンで行なわれるようにもなりました。マニュアルがありますので、それを読んで個人で技術を習得することになります。

パソコンが苦手な人はどうしてもついて行けず、最終的には職場を去って行った人も少数ではありませんでした。IT化が進むと対面的なコミュニケーションが少なくなるというマイナス面もありますが、効率化・標準化・正確性・信頼度・不正排除などに関しては軍配が上がります。

寺院の檀家や墓や忌日の管理、経理や出納事務などこそITの力を利用し、作業を軽減させてご法義の発展に力を注ぐべきだと思いますが、そこにたどりつくまでの課題山積で、住職が集まってもその様な話しにはならない昨今です。

2016年11月28日月曜日

覚醒剤の怖いところ

 
ASKAこと宮崎重明さんが覚醒剤使用の疑いで逮捕されたらしいですが、現在執行猶予中ですので、今回の逮捕で有罪になれば、執行猶予が取り消された上に、今回の件が加算されることになります。執行猶予期間中に刑事事件を起こさなければ、2014年に受けた懲役3年という実刑判決はなかったことになりますのに、なぜ我慢できなかったのでしょう。

覚醒剤は、中枢神経を興奮させることにより気分爽快、自信増加、積極性増加、精力増進、疲労感減少、多弁、不眠などを引き起こします。また、交感神経を刺激させることにより 瞳孔散大、立毛感、心悸亢進、末梢血管の収縮、四肢の冷感、血圧上昇、狡猾、腱反射の亢進なども引き起こします。

戦時中は日本でも戦意高揚や徹夜の作業などのため服用されていましたし、戦後はヒロポンという名で疲労回復の薬として販売されていました。実際は疲労を回復させるのではなく、疲労感を感じさせなくするというもので、体はボロボロになって行きます。

覚醒剤の効果が切れると体がまともになるため一気に疲労がよみがえり、苦しくて我慢出来なくなります。これを解消するには再び覚醒剤を体内に入れるしかなくなるのです。これが薬の持つ依存性です。

依存症になりますと自分の意志でコントロールすることは不可能ですので、病院で治療しなければなりません。治療により正常な体になったとしても、脳は快感を覚えていますのでちょっとしたきっかけで手を出してしまう可能性があります。これは一生続きますので、ダルクのような監視してもらえる組織で更生を図ることが大切になります。

2016年11月27日日曜日

悪人正機 第9期連研⑧

 

鳥取因幡組の連研も佳境に入り、浄土真宗の教えのかなめを勉強しています。今日のテーマは悪人正機です。正機というのはめあてのことですから、悪人が対象の教えということになります。なんやら物騒ですが、悪人というのは法律上や道徳上の悪人ではありません。

仏教では生きとし生けるものの命は平等であると説いています。そうであるならば、他のものの命を奪うということは許されないことですが、私が生き続けて行くためには、牛や豚、魚などの肉を食べたり米や野菜などを摂取しなければ生きて行けません。これらも全て命があります。つまり私たちは自分が生き続けるためには、他のものの命を奪わなければならないということになります。

これは一つの例ですが、気づかないままに仏教で悪といわれていることを行なっているのです。自分の命と他の命のどちらか一つを選べといわれたら、自分の命を優先するということです。自己中心的な生き物であるということです。本能のようなものです。これを根源的な悪と捉えます。

しかし世の中には自分の命より優先して他の命を救いたいという場合があります。代表的なのは我が子に対する母親の愛です。しかしこれさえ我が子という範疇に限定されるのです。愛というのは独占的な一面があります。仏教の慈悲は無条件です。

阿弥陀仏は、自己中心的な生き方をしているものも等しく救うという誓いのもとに仏に成られていますので、そこに分け隔てはありません。むしろ「わかっちゃいるけど止められない」という凡夫こそ救うよとおっしやっています。もう自分ではどうしょうもないと悪あがきを止めた瞬間に救いが実感出来るのでしょう。

どこまでも投げ出さず自分で何とかしようと思い続けている限り、救いの手が差し伸べられていることに気付かないのです。これが悪人が目当てだと言われている故だと思います。

2016年11月26日土曜日

初七日のお勤め

 
親類寺院の初七日のお勤めに坊守と共に参列して来ました。普段は本堂内陣でのお勤めや、宅参りの場合は導師として勤めることになるので、反対の立場でお勤めすることはほとんどありません。参列者の目線で見ると、導師の一挙手一投足がよく見えます。見る対象が一人なので当たり前のことですが、振る舞いに注意が必要だと思いました。

本堂は音の反射と吸収がバランスよく出来ていて、お経の声がきれいに聞こえます。間口六間の本堂で広すぎず狭すぎずで使いやすい大きさです。諸事情により昨日が葬儀でしたので続けての初七日になりました。私の町内では、初七日に近所の方がお参りされるのが慣例となっていますが、地域によって随分と違うようです。

今日はご家族以外には私たちだけでしたので、前日の混雑ぶりと比較して寂しさが一層募りました。お内仏でお勤めする分には少人数でも寂しくないのですが、本堂ですと残されたのは自分達だけなんだなと思ってしまいます。

親類ということもあり、遺族の気持ちが手に取るようにわかったでので、型にはまった法要ではなく、オーダーメイドの法要にしなければならないと感じました。今までは本山で制定された規範に則り、それに手を加えることはなかったのですが、これからは工夫して行きたいと思います。

七日参りは逮夜参りとも言い、亡くなられた同じ曜日の前日に七週に亘ってお勤めします。七回目が最後になりますので満中陰と呼び、四十九日法要をお勤めします。私のお寺は全てお勤めしますが、地方によっては二七日から六七日までは僧侶を呼ばずに家族だけで勤めるところもあるようです。

2016年11月24日木曜日

大相撲石浦関の活躍



鳥取県出身の関取と言えば琴桜が有名でしたが、幕の内の郷土力士はそれ以来ではないでしょうか。地元のNHKローカルでは鳥取県関係力士として、照ノ富士、逸ノ城、貴ノ岩、石浦などの取り組みVTRを紹介していますが、石浦以外は鳥取城北高校相撲部の出身ということだけであり郷土は違います。

鳥取城北高校相撲部は全国高校相撲大会では常連校で、大学で言えば日大相撲部のような位置付けです。近年はモンゴルからの入部者も増えています。ここの監督が石浦さんで、石浦関はその息子さんです。

城北高校の近所には、ちゃんこ石浦というお店もあり地元では愛されています。石浦関は幕内最軽量ということもあり、速さと鋭さが武器です。十両時代は勝ったり負けたりという相撲が多く、大勝ちをすることはありませんでした。

欲を言えば最後まで優勝争いに絡んで欲しいのですが、そのことより次場所が重要です。幕内中位まで上がると思いますが、三役クラスとの取り組みが多くなります。軽量なだけにじっくり攻められると分が悪くなりますので、俊敏さを一層磨きながら体重も少し増やし千代の富士のような力士になってもらいたいと思います。

郷土力士を応援するという心は、実は自己顕示欲の現れなのです。自分は何もしていないのですが、良いことで注目されたり褒められたりすると自分も一員であるかのように振舞ってしまうのです。人間はどこまで行っても自己中心的ですね。

2016年11月23日水曜日

同門住職の死

 
同門の住職が往生の素懐を遂げました。私より10歳若いので僧侶の世界では油ののる時期です。親戚筋に当たりますので、養源寺寺族の法要には参列してもらっていましたし、長女の仏前結婚式では司婚者をお願いしたりしていました。

少し前から体調が思わしくないということで、組内の行事には参加されていませんでした。今は鳥取因幡組の中心的活動となっている連研ですが、彼が第2期、第3期の事務局を務め私が第3期の中途から引継ぎを受けました。連研募集のパンフレットは今でもその当時のものを使っています。

また、電話連絡網や総代会や仏婦など教化団体も含めた組織図も長く利用させてもらっていました。私はエクセルを駆使して似たようなものを作りましたが、その当時彼はワープロで作っていました。パソコンのように汎用性がないので、相当な時間をかけて作ったのだろうと思いました。私なら途中で投げ出していたでしょう。

普段から生老病死や往生浄土を説いている立場ですが、なかなかその死を受け入れることが出来ません。ましてや寺族の方にとっては現実とは思いたくない事態だと思います。昨日までの笑顔にもう会えなくなることが起こるのが現実の世界です。

誰もが日常的に死は考えたくないですが、何時かは死ななければならないのであるなら、生きている時間をつまらないことに使っている余裕はありません。自分の主義主張を正しいものとして摩擦を起こしながら、不平不満の人生を送るより、相手も同じ自分中心の人生を送っていることに鑑み、小欲知足の人生を歩みたいものです。

2016年11月22日火曜日

鷭という鳥を知っていますか

 
今朝リラの散歩をしようとして境内を出ようとしたところ、墓の後ろに回って威嚇するような態勢をとるので、覗いてみたところ鳥がうずくまっていました。大きさは鳩くらいですが、色はほぼ真っ黒です。体型はカラスではありません。

最近はカラスに襲われるのを防ぐため、同類と思わせるための黒い鳩も生まれていると聞いたことがあるので、そうかとも思いましたが、どちらにしても衰弱しているようですし鳥インフルのニュースもありましたので、ネットで調べて東部生活環境事務所に連絡を入れました。

どういう状態か話しをしましたところ、野鳩とカラスは保護の対象外ということでしたが、うずくまっているので判別出来ませんと言いましたところ、取り敢えず行って見ますということで1時間ほどで来ていただきました。

一目見て鳩でもカラスでもありませんということで、取り上げてもらい少し羽をばたつかせましたが、無事ケージの中に納まりました。この鳥はバンですねと言われましたが、バンという名前を聞いたことがなかったので?でした。渡り鳥らしいのですが南日本では留鳥にもなるようです。


後でネットで調べると鷭という漢字でした。赤いくちばしと長くたくましい足が特徴です。大辞林には次のように書かれています。『ツル目クイナ科の鳥。全長約30センチメートル。全身黒褐色で額からくちばしの基部にかけて赤く、くちばしの先端は黄色。脇と尾に白い部分がある。世界中の中低緯度地域に分布する。日本全国の水辺で繁殖し、冬は暖地へ渡る。鳴き声が人の笑い声に似る。』

普通にいる鳥なんですね。担当者の話しでは回復すれば放鳥するそうですが、無理な場合は安楽死させることがあるということでした。元気で飛び立つことを願っています。

2016年11月21日月曜日

ガン治療最前線

 
昨夜のNHKスペシャルは『“がん治療革命”が始まった~プレシジョン・メディシンの衝撃~』というものでした。プレシジョン・メディシンという言葉は初めて聞くものでしたが、内容を見て革命という言葉の意味がわかりました。

ガン三大療法の一つである化学療法、つまり抗がん剤による治療は、いままでガン細胞の合成そのものを阻害するのが目的であったのに対し、プレシジョン・メディシンというのはガン細胞に強く発現している因子を抑制する薬を見つけることで腫瘍の増殖を抑えることが目的です。

正常な体では、必要以上に細胞が増え続けないよう、細胞増殖因子の働きは、厳密にコントロールされていますが、ガン細胞は自己の細胞の増殖プログラムを呼び起こすことで自己増殖します。細胞増殖因子が細胞に増殖する指令を送ることで増殖を続けます。

細胞増殖因子の働きを抑えるために使われるのが、分子標的薬という薬です。この薬を見つけるのにプレシジョン・メディシンという方法が取られます。プレシジョン・メディシン(精密医療)は、簡単に言い表すとすればオーダーメイドの治療です。一人ひとりの病気に一番最適な方法を遺伝子レベルで分析し適切な薬を投与しながら治療するものです。

今までは大腸ガン、肺ガンなど臓器別に薬が与えられていたガン治療ですが、遺伝子変異別に最適な薬を選ぶことにより長生きが期待出来ることがわかって来ました。また、どの遺伝子変異がガンに結びついているのかということに関しては、莫大な研究論文を人工知能に学ばせることにより原因となる遺伝子変異を突き止めることが可能になっています。

様々な分野で研究開発が進んでいる現代、ガン撲滅が現実になる日も遠くはなさそうに感じました。

2016年11月20日日曜日

9年ぶりの健康診査

 
平成19年春に職場で健診を受けて以降9年ぶりに昨日健診を受けました。健診と言っても無料で受けることの出来る国保特定健康診査と、肺がん大腸がんの検査だけです。当日は朝の食事も昼の食事もしっかりとって出かけましたが、健診時の注意事項を見ると、午後に健診を受ける場合は、軽めの朝食にして健診までは水以外の飲食物は摂取しないで下さいと書いてありました。

また、前日は飲酒しないで下さいとありましたが飲酒したことも、食事を昼も取ったことを正直に申告しました。血液検査で血糖値と脂質が高く出るくらいであとは支障なしということでした。胃透視とかドックでなかったので検査が出来ないということではありませんでしたが、次回からは気を付けたいと思います。

こういう注意事項を読まないとか、事前の準備をしないとかということを考えて見ますと、何かをするときの緊張感がないのだと思います。大体のことは分かっていて、今さら驚くことはないという悪い意味での慣れだと思います。

もし、こういう年配者が増えるとするなら、若い人にとっては、たまったもんじゃないでしょう。言っても聞かない、教えても忘れるということでは困ったものです。大いに反省して、明日からは緊張感をもって生活することに致しましょう。

2016年11月19日土曜日

安楽死と尊厳死

警察からの行方不明者の情報提供依頼が毎週のようにメールで届きます。すべて認知症老人の捜索願いです。大体が翌日には見つかって解除になりますが、それだけ行方不明の方が多いということでしょう。

橋田寿賀子さんが安楽死について提言をなさっています。橋田さんは熱海市に一人で暮らしておられます。ご主人を27年前に亡くされ、子供さんはおられませんし、親戚付き合いも全くありません。月刊誌「文芸春秋」12月号で、私は安楽死で逝きたいというエッセイを寄稿されています。

89歳の時に終活ということで身の回りの物をほとんど処分して、犬と二人の生活を送っておられましたが、愛犬も今年6月に亡くなり本当に一人ぽっちになりました。橋田さんにとって将来一番怖いのは認知症になって、何もわからないままベッドに縛り付けられている姿を想像することです。誰にも迷惑をかけず安らかに逝く方法が安楽死であったわけです。そして合法的に安楽死出来る国がスイスでした。

厳密に言うとスイスで認められているのは、医師による「自殺ほう助」です。治療の見込みがないと裁判所が認めた場合に限り致死量の麻酔薬が処方され、医師が見守る中、患者が自らの意思で点滴パックの栓を開くというものです。人気があり現在は申し込みから実行日まで3ヶ月待ちだということです。

日本では安楽死は認められていません。過去の例では医師が殺人罪で有罪になっています。一方尊厳死というのは「人間の尊厳を保って自然に死にたい」という患者の希望をかなえることを目的として、人工的な延命措置を行うのをやめ、その結果として自然な死を迎えるというものです。

日本での尊厳死は、次の要件を全て満たすことが条件となっています。
①患者が治癒不可能な病気に冒され、回復の見込みがなく死が避けられない末期状態にあること②治療行為の中止を求める患者の意思表示が存在し、それは治療行為の中止を行う時点で存在すること③治療行為の中止の対象となる措置は、薬物投与、化学療法、人工透析、人工呼吸器、輸血、栄養・水分補給など、疾病を治療するための治療措置及び対症療法である治療措置、さらには生命維持のための治療措置など

難しい問題を多く含んでいますが、これからの日本にとっても大切な課題です。いずれにしてもリビングウイルという生前の意思表示をしておくことが最低限の条件となりそうです。

2016年11月18日金曜日

無線LANアダプター親機を増設しました


我が家には日常使いとしてノートパソコン2台、デスクトップパソコン2台のほかに、ipad、ipod、ネクサス7、Kindle fire、iphoneなどwifiを必要とする機器が溢れています。そのため現在は無線LANアダプターが2階の書斎に1台、1階の寺務室に1台あり広くカバーしていますが、本堂の奥に行くと電波が弱くなり画像や音が乱れます。

そこで本堂にも無線LANアダプターを1台増設することにしました。本堂でwifiを使うことはあまりないのですが、法事に参加出来なくてFaceTimeというアプリを使って千葉県からネットで参加された方が過去にありますし、本堂での葬儀の様子をUstreamを使って門徒会館のスクリーンに映し出す場合は必要となります。

今の時代は個人が簡単な機器を使ってネット中継することも出来るようになりました。ノートパソコンであれば今はほとんどの機種にWebカメラが付いていますのでそのまま中継出来ます。Ustreamは無料で使用できますし、スマホ用のアプリも無料でありますのでホントにお手軽です。

電波がしっかりしていれば、画質もまずまずで大スクリーンに映しても満足できるレベルです。今回買った無線LANアダプターはキャンセルのあったリユース品ですので、半額で買えました。5GHz帯も使えますので混信する心配はありません。

どんどん便利になって行く現代ですが、これだけ無線が広がるとどこかで問題が起こって来るのではないかと心配します。目に見えない電波ですが、もし見えたら家中ラインだらけで、恐ろしい光景かも知れません。

2016年11月17日木曜日

お寺を何故残すのか

 
27年くらい昔のことになりますが、NHKで寺が消えるというドキュメンタリーが放送されました。島根県の浄土真宗のお寺のことでした。檀家が減り住職も高齢となり誰も寺を継ぐものがいないという状態で消えていきました。今は過疎化がさらに進み、20%のお寺が住職不在です。

これからもお寺は少なくなって行くでしょう。日常的にはお寺がなくても困りません。葬儀は葬儀社がやってくれますし、僧侶はアマゾンで見つけることが可能になりました。法事を手掛ける葬儀社もありますので、寺の本堂がなくても困ることはありません。

葬儀と法事だけならお寺がなくても構いません。ではなぜお寺を残す必要があるのでしょうか。それは人間を根本的な苦から救えるのは、仏教しかないからです。何のために生まれて来たのかを納得させる答えを導き出せるのは宗教しかないからです。

どんなにお金があっても、どんなに社会的経験を積んでも死を免れることは出来ませんし、死んだらどうなるのかを知ることは出来ません。前を向くだけでは生きられないと感じたときに、仏教が必要になります。その時のためにお寺を残して置かなければならないのです。

若い人がお寺に参らないと言われますが、前だけを向いて生きていけるときは無理に参らなくてもいいと思います。壁にぶつかったり、人が信じられなくなったり、生きていくのがつらくなった時に門を叩けばいいと思います。

そのためにはお寺の側も、訪ねて行きやすい環境にしておく必要があります。せめて在寺しているときは戸を開いていて欲しいですね。

2016年11月16日水曜日

老化スイッチはどこだ!


今日の「ガッテン!」を見られた方はすでにご存じのことですが、少し衝撃的でした。NASA直伝!魅惑のアンチエイジング術ということですが、NASAが老化を遅らせる老化スイッチを体のある部分に発見したということです。

そのスイッチを刺激することによって、ハードな運動をしなくとも死亡を減らし筋肉を増やし、様々な病気のリスクを減らせるというのです。宇宙飛行士が帰還したとき、いつも数人の人に支えられているのが不思議でした。無重力だから体に負荷がかからず、筋肉が細くなるのだと思っていましたが、宇宙船の中でも運動していますから負荷はかかっているはずです。

宇宙にいると筋力低下、骨密度低下、認知機能の低下、脂質や糖の代謝異常、循環機能の低下など老化と思われる現象が急速に進みます。その理由が無重力にあるらしいということは分かっていたのですが、このたびそれが耳石にあることがわかりました。

耳石とは平衡石,聴石とも言います。無脊椎動物の平衡器官である平衡胞内にある小さい粒です。耳石は体の傾きに応じて重力の方向に移動し、感覚細胞の感覚毛を圧迫し、その圧迫の変化によって体の傾きを感じるようになっているものです。

無重力では耳石は浮かんだような状態になり、ほとんど動きませんが、耳石は全身の筋肉や自律神経とつながっており、耳石が活発に動くことにより、筋肉の活動や心臓の動きも良くなり、血流や糖の代謝も良くなることがわかりました。

一方耳石が動かないと全身の筋肉や自律神経の働きが衰え、筋力の低下や代謝の異常など悪影響が起こると考えられます。NASAの研究によって分かったことは、30分に一回立ち上がることによって耳石が活発に動き、老化防止に効果があるということでした。さあ今すぐ立ち上がって見ましょう。

2016年11月15日火曜日

お客様は神様ではない

電通の過重労働はニュースになりましたが、今の世の中はいろんな意味でサービスを過剰に求める時代になっていると思います。便利で楽になることはありがたいのですが、そのことが回りまわって人を苦しめることにつながっていると思うのです。

日本がサービスの品質で世界から見本とされ、生産力の落ちた今でも一目置かれているのはご存知の通りです。私も便利でネット通販を利用しています。注文時点で配達時間を指定するのは当たり前になっていますが、配る方は道順よく配達することが出来なくなり、労働時間が増えます。

お寺で重たい飲料水を頼むことも多いのですが、玄関まで運んでいただけるので重宝しています。留守をすることはほとんどないので、不在通知が入ることは滅多にありません。時間指定をしていながら不在ということもあるようで、エレベータのない市営住宅などへ飲料水を運んで来たら留守だったという時はガックリ来るでしょう。

時間指定してもどうしても帰れない時もあるでしょうが、再配達が全体の2割を占めるというのも問題が大ありです。他の国では不在の場合は自分で取りに行くというのが大勢です。近所に預けるのが当たり前という国もあります。

ネット通販がどんどん伸びている現状ですが、佐川急便は大手通販会社との契約を解除しました。そのためヤマトと日郵は宅配取扱量が大幅な前年超えとなっています。頼む人は仕事が忙し過ぎて荷物を受け取る時間がどんどん遅くなり、不在も増えています。このままで進むと宅配も深夜便までなり兼ねません。

過剰サービスの要求と売り上げを伸ばすための過重労働によって、いずれこの国は滅びてしまうのではないかと思ってしまいます。日曜日はみんなが休み、盆正月もみんなが休みという国に憧れます。

2016年11月14日月曜日

人工知能と僧侶

今日は暖房のいらない暖かい日でしたが、夕方から雨となり気温が下がって来ました。
インターネット彼岸寺というサイトに人工知能と仏教というタイトルで、投稿されている方がありました。以前、松本紹圭さんが書かれていましたがそれに触発されてのことでしょうか?


人口知能に任せられる領域が増えて、いずれは多くの仕事が人工知能に取って代わられるということは言われており、具体的に職種が上げられています。このたびの投稿では、それを一歩進めてブッダの言葉を元にした7千もの経典をAIに読み込ませ、人々の苦に対応させて行けば僧侶は必要なくなるかも知れないというものです。

確かに僧侶はブッダの言葉を全部把握しているわけではありませんし、不完全な形で理解していることも多いと思います。その面ではAIの方が勝るかも知れません。ただし人の経験は、言葉では表せないものもたくさんあります。胸が熱くなるとか胸に染みるとか胸にジーンと来たというような言葉は、実際に体験しないとわからないことです。

そしてその体験も100人いれば100通りの体験があります。ですから70億人いれば70億の体験があるわけで、中には本人でさえ忘れた体験もあります。それにすべて対応しようと思えば時間とデータが足りないと思います。

人間の場合はそれをバッサリと切り捨て、適当なところで答えを出すことが出来ます。いい加減なことの出来るコンピュータがあればいいのですが、それはコンピュータとは言えないでしょう。ということで、不完全な人間に不完全な形で対応できるのは、人間しかないと思うのです。

2016年11月13日日曜日

宗祖のご遺徳をしのぶ法要

今日も昨日同様小春日和となりました。午前中、門徒推進員連絡協議会が主催する連研修了者研修会に参加し、組長としての挨拶を行なって参りました。

多くの宗教には教祖や宗祖の誕生日、命日を記念した行事があると思います。お釈迦様には4月8日の誕生を祝う花まつりがあり、2月15日は入滅された日を記念して涅槃会があります。キリストの場合は、イースター(復活祭)とクリスマス(誕生祭)が有名ですが、正確なことは分かっていないようです。

そういうものと同じで浄土真宗本願寺派では、1月16日の親鸞聖人のご命日に報恩講という法要をお勤めします。京都西本願寺では、1月9日から8日間報恩講をお勤めします。全国の他のお寺では「お取り越し」といって前倒しでお勤めしますが、大体11月頃から1月前半までに行われます。


当山は今日11月13日にお勤めしました。法要は正信念仏偈の行譜でお勤めしました。今日の法話は〔夫れ真実の教をあらわさば、則ち「大無量寿経」是れなり〕をご讃題として、真実の教えについて学びました。

流れとしては、まず事実と真実の違いを明らかにし、宗教がなぜ生まれて来たのかを知る中で、真実を希求する心が誰にでもあるとお話ししました。そして大無量寿経に書かれていることの概要をお話しさせていただきました。今までになく真正面から取り組んだことでした。

2016年11月12日土曜日

ネット信徒との出会い

今日は秋晴れの気持ちの良い日でした。三回忌と一周忌のお勤めをさせていただきました。養源寺は私の曽祖父にあたる山名立天が本山で役員をしていましたので、自坊のことはほったらかしだったようです。法務はすべて役層に任せていたと聞いています。その時代に境内地を切り売りしていた様子で、墓地も小さくなってしまいました。

また、子供がいなかったので、曾祖母の妹の子を養子に迎えました。小さなお寺でしたから、お寺を護持するのが大変でした。私が子供の頃は下宿人がいたり、倉庫業をしたりと今でいう収益事業をしてお寺の財政を支えていたようです。

どの組織でもそうですが、フルタイムの専従員を置くためには最低でも200人程度の会員が必要です。お寺の場合でも同じですが、建物の維持管理もしていくためには300軒程度の檀家がなければ維持できません。

ですから私のところもいわゆる兼業寺院でした。兼業寺院の欠点は、檀家の方の要望に応えることが出来ない所です。特に勤め人で兼業ということになると仕事の関係で平日の法事が出来ません。また、葬儀の場合は仕事関係で迷惑をかけることになりがちです。

望ましいのは専業で、なおかつ自分が成長する時間も持てることです。檀家数も一定規模を維持し、総代や護持会組織が機能することです。そういう意味ではパソコンによる事務の効率化やホームページやSNSによる情報発信は大変ありがたく感じます。昨日は、一度も顔を合わせることのないまま、メールやネットだけで門徒になられた方が徳島から訪ねて来られました。

メル友という言葉はありますが、それに近いものでした。ただし一回り以上年上の大先輩です。ネットでも自分に相性の合うお寺かどうかはわかるそうです。他の寺院のホームページも沢山ある中で、ウェブ上で決め手になったことのお話しもいただきました。情報発信はいつの時代でも大切なことのようです。

2016年11月11日金曜日

浄土という世界1


12月の連研で往生浄土というテーマで2時間ほど講義をしなければなりませんので、今勉強していることを少し書いて見たいと思います。浄土真宗に対する批判の一つに、仏教とは言えないのではないかというものがあります。縁起から始まる初期仏教、そして大乗仏教に至るまで貫いている仏教の基本的枠組みから浄土真宗を考えて見なければならないと思います。

仏教は自らが仏となることを目的にしています。(ただし、仏になったらそれで終わりではありません)仏とは悟りを得た者のことです。悟りを得た者が集まって作っている世界を仏国土と言います。浄土は仏国土の一つです。宗教の世界で語られるものですが、体感するものであり言葉で表すことは困難です。

私を取り囲む世界を政治、科学、哲学、宗教という4つの分野で考えた場合、政治は主観化志向で外面化志向です。科学は客観化志向で外面化志向です。哲学は客観化志向で内面化志向です。宗教は主観化志向で内面化志向と考えることが出来ます。

仏教では思い通りにならないことを苦と捉えます。つまり自分の思い(願望)と現実とのギャップが苦になるわけです。周りの環境を変えて願望通りにしようというのが政治であると思います。それぞれが持っている願望の最大公約数が民主主義につながるのではないかと思います。

しかし、死にたくないという願望に関しては、政治では如何ともしがたい。科学は私というものを中心に置くのではなく、私というものを除外して客観的事実だけを積み上げてゆくものですから、死なない人と死ぬ人を分類してそこにどういう違いを見出すかということが必要になります。

ところが100%の人が死ぬということは、死ぬという原因は分かっても、死なないという原因は見いだせないわけです。哲学は、個人から出発したとしてもその精神的経験を客観的に見て一般化しようとしますので、死に至るまでの心理的変化は哲学的に解明できても、死そのものや死後の世界に関しては無力です。そこで宗教の出番となるわけです。

2016年11月10日木曜日

お寺らしさとは


門徒会館を使われた方が、設備がお寺とは思えないですねと言われます。門徒会館は大きな窓が北東方向に4枚と南西方向に4枚あり、昼間は照明なしで十分な明るさがあります。冷暖房完備で、台所と風呂が付いており、音響システムが充実しています。その他天井にはプロジェクターや150インチのスクリーンが収まっています。

トイレは全自動ウォシュレットが二室あり、一人用の机が24台と椅子が48脚あり、普段は押入れに納まっています。畳の上にカーペットを敷いていますし、部屋が防音になっていますので気密性が高く、夏冬ともエアコンだけで快適に暮らせます。

お寺のイメージは、暗い寒い痛いだそうです。天井が高く、広いのに照明が充分でないので暗いと思われています。また、空間が広いので冬は体育館のように底冷えがすると思われています。また、長時間座ることになるので足が痛いと思われています。
どこのお寺もお参りに高齢者が多くなり、座布団から椅子に変わって来ています。バリアフリーも進んで来ていますし、照明もLEDが導入され随分と明るくなっています。残るは冷暖房というところでしょうか。

また、お寺は法事・葬儀のイメージが強いですが、最近はコンサートやカフェ、写経、瞑想、落語会などお寺独自で企画されているところも多くなり、イメージが変わって来ています。

先日の電話はお寺でコンサートなんかして罰が当たることはないですかと聞かれました。もちろんそんなことはありません。どういう場合でも仏様が罰を当てるということはないのです。長年培われたイメージを変えるということは時間がかかりますが、必要のないものが消えるのはあっという間です。

お寺らしさというイメージを変えて行くのと、内容を充実させ人の集うお寺にして行くのとどちらも時間との戦いになりそうです。

2016年11月9日水曜日

アメリカ大統領選挙


日本時間午後4時35分、AP通信はトランプ氏の当選確実を報道しました。NHKの開票速報を見ていた人は、午後2時ごろにはほぼトランプ氏が勝つことがわかっていました。最終盤になって票の開き方がゆっくりとなっていました。

Yahooのネット速報の方が早かったですね。この写真はその時のスマホの画面です。これからアメリカがどうなるかは分かりません。この目で確認をしていくしかないでしょうが、一部巷で言われているように大変わりすることはないと思います。

現代は政治にしろ経済にしろ、色々なものが組み合わされて成り立っています。大まかに見ればトランプ氏に反対する勢力も半分あるわけですから、その方たちを見捨てて政治をすることは出来ません。また、大統領が代わったからと言って、貧困層が豊かになることはありません。

資本主義である以上経済格差は付き纏うからです。どちらが大統領になっても現状は変わりません。これから少しづつ変えていくしかありませんが、その力を持っているのは世論であり、議会だと思います。これからのトランプ氏には茨の道が待っていると思います。

外交にしても今までの取り決めを一気に変えることは不可能でしょう。大統領が代わったという理由で、今までの取り決めを一方的に破棄することは出来ません。横綱と序の口くらい力が違うのであれば、可能ですが、現代はどこの国も圧倒的な差はありません。

過激な発言ばかりが取り上げられて来たトランプ氏ですが、その通りに出来ないのが現代社会の仕組みです。半数を敵に回すことは出来ないので、融和的な政策を取らざるを得ません。変化を期待して投票した人は不満を持つことになります。

当面TPP交渉から本当に撤退するのか見たいと思います。日本からのアメリカ基地撤退もあるのでしょうか。大統領の権限が強ければ強いほど行使は難しいものになるでしょう。

2016年11月8日火曜日

生協県連50周年



鳥取県生活協同組合連合会の50周年記念式典&レセプションがホテルモナーク鳥取で行なわれました。私も短い期間でしたが、共済生協代表として役員を担いましたので招待されたことです。

生協には分野によって専門的に分かれています。簡単にいいますと、労働者の作ったスーパーが購買生協、労働者の作った銀行が労働金庫、同じく病院が生協病院、同じく保険が共済生協です。他にも住宅生協や信用生協などがあります。

労働金庫は元々は同じ生活協同組合の枠組みでしたが、労働金庫法が出来、生協から離れました。他の生協は消費生活協同組合法に基づいています。歴史を見ると戦後の日本経済と同じ歩みをしています。今の姿からは考えられないほど稚拙でした。

式典には平井知事も見えられ、日頃接することの少ない分野にも関わらず聡明な挨拶をされました。例によってあいさつの中で、組織の主要な方々の名前に触れられました。真似のできることではありませんが、それについて会場で二人の方からお話しが聞けました。

事前にしっかりレクチュアを受けているらしく、それなりの時間を割いて準備しているそうだという人と部下から資料をもらって、それを歩きながら読んで頭に入れているらしいという人がおられました。それぞれの根拠についてもお聞きしましたので、どちらも満更ウソではなさそうです。

人の名前が入るとぐっと親近感が湧きますので、取り入れたいのですが万一名前を間違えたときのことを考えると躊躇してしまいます。間違えない努力をしておられるのは間違いないようです。今日は楽しいレセプションでした。

2016年11月6日日曜日

お寺で七五三はビックリですか?


今日は午前中に本堂で初参式と七五三のお勤めをしました。初参式と言うのは、生まれて初めてお寺にお参りするのを祝って行う仏事です。特に何歳と言うことはありませんが、赤ちゃんの時にお勤めすることが多くなっています。次第は京都西本願寺でお勤めされるものに習っています。

七五三については、特に決まった次第があるわけではありませんが、ここまで無事に育ったことを感謝し仏様に奉告するお勤めです。この度は一才の女の子の初参式と三才と七才の男の子の七五三をお勤めしました。お寺での行事と言うと葬儀や法事というイメージがありますが、他にも成人式や結婚式はもちろん、還暦や古稀、喜寿のお祝いなどもお勤めします。

人生の節目にあたり仏様に感謝の気持ちを奉告するという意味合いがあります。歴史的に見るとお寺と神社が一体であったことから、どちらにも慶弔の行事が組み込まれており、特にどっちでやらなければならないということはありませんでした。それがいつの間にか住み分けが進み、専門化して行ったものと考えられます。

仏事の○回忌や神事の厄払いなど、年数や年齢に関係した行事がたくさんありますが、何故何年とか何故何歳ということで調べて見ても、納得の行く答えは見つかりません。色んな説がありますし後から付け足されたと思われるようなものもあります。

いずれにしても年齢や年数で風習とか仕来りを決めておかないと、その行事自体が廃れてしまうということでしょうか。最近はやり始めた行事にハロウィンや恵方巻きがありますが、正月のしめ飾りは一時ほどではなくなりましたし、バレンタインも静かになりました。

商業ベースで流行ったものは、ブームが終わると大人しくなるようです。商売のためには、次のブームを巻き起こさなければなりません。次は何が来るのでしょうか。楽しみです。

2016年11月5日土曜日

四十九日法要

今日は午前中、やずブータン村まつりの会場つくりの一部と、音響設定を手伝って来ました。午後からは60代で亡くなられた医師の四十九日の法要でした。私とあまり年が違わない方でしたので、死を身近に感じました。

今までに葬儀を勤めたのは二百回は超えると思いますが、若いときは差定通りにやるのが精一杯でした。どうすれば印象的な葬儀になるのか工夫した時期もありました。声の出し方を練習したこともあります。お経より法話に力を入れた時もありました。

最近は力みが無くなりました。自然体で出来るようになりました。今までは葬儀の構成を考えたりしていましたが、今は何も考えないで臨んでいます。法話の内容も事前準備はナシです。

その人を思い浮かべながら、頭に浮かんだことを話すようにしています。そうすると自分でも思いがけない言葉が出て来ます。まさに自分が話しているのではなく、体を借り物として話しているような感じがします。

今日はお浄土の話しをしました。人は西方にある阿弥陀如来の浄土で仏になります。仏になって娑婆で必要としている方のために舞い戻り、正しい方向に導きます。それは目に見える形ではなく、ふとした考えや思いとなって届きます。人間の能力では図り知ることの出来ない力です。それを本願力と言います。

2016年11月4日金曜日

ブロガリからの移行

今までブログとして利用していたブロガリは、あと3ヶ月弱で廃止となるので今月から並行して移行することにしました。エクスポート機能を利用して文章だけでも一括移行しようかと思いましたが、ハードルが高くあきらめました。

いろいろ苦労されて移行しておられる方もありますが、その労力よりゆっくりと順次移行させた方がストレスが溜まりません。絶対に残したいほどの文章でもありませんので、必要があれば自分のバックアップを見れば済むことです。ゼロから始める方が面白いと思います。

コマーシャルが入るのは嫌なので、グーグルが運営しているbloggerを利用することにしました。今月から12月までは両方に載せることにします。来年からは院家日記Ⅱだけにして、院家日記は更新を停止します。

全てのものに始まりと終わりがあるのですから、bloggerもいずれ廃止になるでしょう。それは間もなくかもわかりませんが、それで構いません。もっとずっとという気持ちがわからないではありませんが、それが執着で煩悩の代表的なものです。そう願うことがいつのまにか苦しみを作っており、ストレスにつながります。

形あるものは常に変化し、いのちあるものはいつか消えるというブッダが発見された真理を素直に学びたいものです。

2016年11月3日木曜日

血糖値500オーバー

昨日から叔母が元気がないということで、かかりつけ医に行って血糖値検査をしてもらったところ、555というとんでもない数値でした。血糖値をコントロールするために入院したほうがいいということになり、本人に確認したところ急に意識がはっきりして、入院はしたくないということで今朝まで様子を見ました。

少し熱があるということで病院に行ったところ、意識の混濁があるのでこのまま入院して下さいということになりました。診断の結果病名は非ケトン性高浸透圧症候群ということでした。この病気は、糖尿病の代謝性合併症で、高血糖、極度の脱水、血漿高浸透圧および意識障害を特徴としています。

直接の原因は分かりませんが、糖尿病から来ていることは確かです。進行すれば命にかかわることもあり、病院で適切な治療が必要です。点滴で水分を補給するとともに、脱水状態を改善するための治療が行われます。

2週間ほど入院して血糖値のコントロールをしますということですが、一方でもう92歳の高齢ですから、不測の事態が起こることも可能性として認識しておいて下さいと医師から言われました。7月の手術も乗り越えましたので、今回も無事乗り越えることを念じています。

2016年11月2日水曜日

生き残るお寺

いよいよ冬が近くなってきたということで、灯油を買いに行く準備をしていました。通りがかった近郊の他宗のお寺さんと立ち話をしました。やっぱり話題は、これからのお寺の未来をどうするかということでした。

何億という寄付を集められる寺院がある中で、10万円の寄付に対しても檀家さんから怒られる寺院があります。多様ですがお寺の寄付集めが難しい時代になりました。私のところは寄付の依頼額を決めたり、寄付の強制はしていませんが、必要な事業に対しては予算を立てて試算してみたりはします。

お寺で費用がかかるものには、新築や増改築、大修理などの建築関連費用と住職継職など特別な法要があります。普段から積み立てておけばいいのですが、積立金が足りない場合などは寄付を募ることになります。

私のところも数年後には住職継職法要を勤めますので、今から積み立てをしておかなければなりません。積み立てのもとになるのは、お布施です。お布施はお寺を存続させるために門信徒の方々が出される寄付のようなものです。決して法要のお礼や住職への謝礼ではありません。

お寺を護持していくための最低限の費用は護持会費として負担いただいています。現在は宗教法人として駐車場を購入したり納骨堂を建設した時の借入金が残っていますので、来年より住職や坊守の給与をゼロにして返済に回そうと思っています。

高齢社会になり年金暮らしの門徒さんが多くなっていますので、昔のように寄付をお願いすることは難しくなるでしょう。また、葬儀に関しても規模を小さくし、簡素化したものが好まれるようになると思います。そうなればお寺での通夜・葬儀も選択肢の中に入って来ると思います。今のうちにその環境を整えておくことが必要です。

お墓もいらなくなる時代が来るでしょう。大きな墓地を持っておられるお寺は、空いた墓地をどうするか今から考えておく必要があると思います。先が見えなくとも、予測できることには対応しておかなければならない時代となりました。

2016年11月1日火曜日

本:ブッダと法然

新潮新書の「ブッダと法然」を読んでいます。両者を比較しながらそれぞれの人物像に迫って行こうという手法ですが、読みやすくわかりやすい本です。法然上人の出家の動機は、父の菩提を弔い、自らは己の解脱のつとめるということにあったようですが、15歳という若さでした。

純粋に仏道を追い求める法然にとって、比叡山の表舞台は自分たちの名誉栄達にうつつを抜かす俗世と同じでした。そこで18歳で真に道心あるものが集う比叡山の裏舞台、西塔の黒谷に再出家しました。法然は18歳で遁世してから43歳で回心するまで25年の長きにわたり黒谷で引きこもりの生活を続けました。

法然は自己洞察の厳しい人であり、自分自身が持つ悪の存在に驚愕し嫌悪感を持っていました。自力でさとる従来の聖道門では自分が解脱出来ないことを自覚していました。「三学非器」と言われた所以です。戒・定・慧の三学は全体で仏教の修道大系を表しています。

あるとき経蔵で善導の「観経疏」を読んでいると「一心専念弥陀名号 行住坐臥不問時節久近念念不捨者是名正定之業 順彼佛願故」(一心にもっぱら阿弥陀仏の名号を称えて、何時いかなることをしていても、時間の長短にかかわらず、常に称え続けてやめないこと、これを正定の業というのである。それは阿弥陀仏の本願の意趣に適っているからである)という一文に出会って回心したのです。その後、夢での善導との邂逅、大原の勝林院での有名な大原問答での勝利によって浄土宗が世の中に認められたのでした。

2016年10月31日月曜日

時が経つのが年々速くなる

年回法要もそうですが、お寺は年に1回会うというパターンが多いように感じます。お寺の活動が年単位になっているせいもありますが、それだけご門徒さんと接する機会が少ないことの裏返しかも知れません。

年をとると1年が過ぎるのが早くなるという理由には、代表的なものが二つあります。一つは相対時間です。同じ1年でも6歳の子が感じる1年は、過去の人生と比べて6年の中の1年の経験です。しかし60歳の方が感じるのは、過去60年の中の1年です。

人生の中の比重が違うので、年をとればとるほど1年が短く感じられるというものです。相対的には納得できるところですが、絶対時間は変わらないわけですから完全に納得というわけには行きません。

もう一つは脳の記憶力です。子供の頃はやることなすこと初めてが多いので、脳には刺激的です。初めての体験が目白押しです。脳は毎日刺激を受けて活性化し、記憶も鮮明に残ります。ところがだんだん年をとって経験値が増え、物事の収まり方がわかって来ると面白くも何ともなくなります。

ついには同じことの繰り返しで、昨晩何を食べたかさえ記憶に残らなくなります。脳が刺激をうけていないせいです。どうすれば刺激を受けることが出来るのでしょう。左手を使えとか、普段と違うやり方で日常を過ごしてみるという方法もありますが、長続きしません。

最も効果的なのは、若いとき時間やお金がなくて断念したことを、今蘇えさせることだと思います。外国語を勉強してもいいですし、ピアノのレッスンを始めてもいいです。とにかく新しいことにチャレンジすることです。

それによって脳の新陳代謝が強まり、加齢化がストップします。加齢とは胸がときめくことが無くなることです。常にときめきをもって生活すれば、苦しみ悩みから解放されるでしょう。

2016年10月30日日曜日

自力と他力


連研も7回目を迎えいよいよ浄土真宗の要に入って来ました。今日は「他力」です。一般的には自力とは自分の持っている力というふうに考え、他力とは自分以外の力と思っています。そして他力本願が誤用されるようになっています。

他力というのは仏教用語で、浄土教の代表的なものです。自力という言葉は最初はありませんでした。仏教は基本的に自らが修行して悟りを開くという教えですから、自力という言葉を使う必要がなかったのですが、他力という言葉が出来たため、それまでの仏教を自力という言葉で表したものです。

他力を一言でいえば、如来の本願力ということですが、そう聞いても何のことかわからないと思います。自分に対して不思議な力が働くというというふうに考える人もおられるでしょう。完全に間違っているとは言いませんが、それが超能力のようなものであると思うのは間違いです。

自力で悟りを開き仏になるという道は、大変厳しい難行苦行を乗り越えて到達するもので、100%達成しなければ意味がありません。そしてそこまで到達できるのはほんの一握りの方です。仏に成る目的は、苦しみ悩む多くの衆生を救うためですから、一握りの方では到底及びません。

そこで生まれたのが大乗仏教である浄土教です。大乗というのは大きな乗り物という意味ですから、多くの方を乗せることが出来ます。つまり多くの人を救うことが可能になります。自力で修行できない方を乗せて、修業に最も適した浄土という世界へ運んでもらえそこでたっぷりと仏に成るための修業を積み重ねるわけです。

ここでも修行をするのは自分の力ということになりますので、これも自力となります。他力というのは自分で行なう修行さえも阿弥陀仏が肩代わりしてして下さって、私の方はただお任せすればいいというものです。

なーんだそんな簡単なことかと思われるかも知れませんが、実はこれも大変に難しいことです。例えば海で溺れるということを体験的に知っている人にとっては、全身の力を抜いて仰向けに大の字になれば海の力で浮くことが出来るといわれても、自分は何もせずただ海に任せるということが出来ません。

同じように今まで自分の体験や知識で物事を見るということに慣れてしまった私は、自分の思慮を捨て、自分の価値観を捨ててただ阿弥陀如来の本願に任せよといわれても出来るものではありません。親鸞聖人の作られた正信念仏偈にも、阿弥陀如来の本願を信ずることは難しい中にもこれほど難しいことはないと歌われている所以です。

2016年10月29日土曜日


今日は各地で公民館まつりがあったようです。私は修立地区の公民館まつりで人形劇公演の依頼を受けていたので、まつりに参加しました。当初は日曜日の公演ということで、米子の「おかぴょん先生」に頼んでいたのですが、土曜日に決まったので急遽「劇団どんぐり」にお願いしました。

劇団どんぐりは最近マリオネットに力を入れているので、今回はマリオネットの「ぼくのおじさん」と「時子おばあちゃん」の二作品を見ることが出来ました。ぼくのおじさんは、子供とおじさんの掛け合いで、おじさんのお父さん、おじいちやん、ひいおじいちゃん、ひいひいおじいちゃんなどたくさんの先祖が出てくるお話しです。最後はクロマニョン人まで出て来ます。

先祖を辿りながら歴史の勉強も出来ます。「時子おばあちゃん」という作品は、糸操りでおばあちゃんの人形が毛糸を編むところをじっくりみえる作品です。編み棒を細かく動かす様子や、毛糸玉を時折ひっぱって糸を手繰る様子などを楽しむことが出来ます。子供だけでなく大人も楽しめます。

劇団どんぐりの主宰者は、一緒に人形劇団こうま座をやっていたメンバーです。一緒に活動をしなくなってからも、一人でコツコツ人形を作り、地道に公演を続けて来られました。来年の春は劇団どんぐりも呼んで第2回寺子屋人形劇場を行う予定です。もちろんプロも呼びます。楽しみにしていて下さい。

2016年10月28日金曜日

医者だけが知っている本当の話し

このタイトルは、本のタイトルです。とんでも本か?それとも真実本か?私たちが当たり前と思っていることを次々と否定しています。こんなこと書いてもいいのかなと思うような記述が沢山あります。ただ、前提としている考え方には同意できるところがありますので、全部読んで見ました。

主張:人間がなる病気は決まっています。一つは急性疾患。これは西洋医学で今はだいぶ助かるようになった。もう一つは感染症。人類永久不滅のテーマです。本来はこれしかないのに、他の病気になる。がんとかアレルギー、膠原病、アトピーとか、精神障害とか、遺伝病とか昔はほとんどなかった。今あるのは今やっていることが悪いからです。-内海

主張:なぜ医療費が増えるのか。簡単なことなんです。昭和20年以前に比べて、日本人が日本人に合わない生活をしてしまっている。生物学的には、われわれの仲間であるサルに近い生活をしていれば、病気になることはない。猿が住めるのは北緯55度くらいまで。-真弓

これに同意できる人は、読んだ方が良いです。よくわからんという人は読んだ方が良いです。絶対間違っていると思った人は、読んで見る価値があります。何が本当かわからない時代ですが、少数のなかに真実があることが多いです。

2016年10月27日木曜日

免許の更新をしました

自動車運転免許の更新をしました。6年ぶりにゴールドに戻りました。無事故無違反は20年以上続いていますが、6年前に更新時期を1週間過ぎてから更新忘れに気づきました。更新忘れをすると新規取得となり、それから3年間無事故無違反であっても、次の更新はゴールドにならず普通の3年更新となります。

何故更新を忘れたのかと言いますと、サラリーマン時代は仕事の予定を見ながら早めに更新日を決めます。つまり仕事と同じようにカレンダーに予定を書き入れて準備をします。ところが今から6年前というのは退職して1年半くらいたったころで、時間が自由になる時期でした。

2か月間ということであればいつでも講習を受けられるということで、特に予定を入れずに過ごしていたため、うっかりと忘れたものでした。いつでも出来るという時は要注意です。空いている日がたくさんあっても、キチンと予定を組んでおくことが必要でした。今回は事前に予定を組んでいたので忘れることはありませんでした。

次は5年先の更新ですので、今のままで行けば高齢者講習を受けることになります。新しい免許証を見ると、免許取得は平成22年12月になっています。免許証を見るたび更新忘れを思い出します。いい教訓でした。

2016年10月26日水曜日

来年の年回通知

お寺の大切な任務に、一周忌や三回忌などのご案内があります。宗派によって多少違いますが、浄土真宗ではそれ以外に七回忌、十三回忌、十七回忌、二十五回忌、三十三回忌、五十回忌があります。

回忌という名前は数え年ですので三回忌は二年後となります。何故数え年と思われるかも知れません。亡くなることを往生と言いますが、意味は浄土へ往って生まれるという意味です。生まれるというのは仏に成って生まれるということです。ですから誕生と同じように数え年で数えます。

丁寧に対応しようと思えば、それぞれ4~5ヶ月前くらいにご案内した方が良いのでしょうが、そこまで対応出来ていないのが現状です。来年が○回忌に当たりますということで、毎年10月頃に出しています。寺院によっては本堂に一覧表を掲示されることもあるようです。

当山の場合はパソコンで管理していますので、抽出は比較的簡単ですが手書きの過去帳をめくって抽出するとなると、かなり大変です。新しくご門徒になられた方のご先祖の年回を手書きの過去帳に挿入するのも大変です。

パソコンをマイコンと言っていた当時プログラムを組むのに、10行毎に入力していたのを思い出しました。後で追加する場合は空けてある行にプログラムを挿入していました。9行までは追加できました。過去帳もそうしておけば良かったかも知れませんが、そうすると量が膨大になります。昔はどうしてたのでしょうね。

2016年10月25日火曜日

お世話になった方の訃報

最近役者さんや俳優さんの訃報を聞くことが多くなりました。今日ある会合に出て米子時代から大変お世話になった方の訃報を知りました。地震で気持ちが沈んでいるときに寂しい知らせでへこんでしまいました。

この方は仕事柄、写真撮影が趣味と実益を兼ねていました。構図もいいのですが、一番の特徴はストーリー性でした。イベントの流れをすべて把握し、どこでどのような絵を描くかということをしっかり頭に入れて仕事されていました。そのため早く現場に現れ、一人でリハーサルしておられました。

養源寺の住職継職式、前住職の一周忌法要、長男の結婚式、長女の結婚式、次女の結婚式はすべて写真を撮っていただきました。経費を無視した、まさにボランティアでの撮影でした。一度雑誌に投稿された記事を見たことがありますが、理路整然とした文章でした。かといって堅苦しいものではなく、ユーモアを交えた味のある文章でした。

体調不良などの情報はなかったので、元気でご活躍されているものと思っていました。利害なしで話しの出来る方でした。いつも私の家族を気遣っていただきました。本当にお世話になりありがとうございました。

2016年10月24日月曜日

関西から越して来られ、18年間鳥取に住んでおられた男性が高齢と共に一人での生活が困難になったため、娘のいる関西に帰られることになり、仏壇を処分したいといって来られました。

知り合いの仏具屋さんに頼んで引き取っていただくことにしました。毎年一件くらいはこのような依頼があります。こういう時、浄土真宗では遷座法要をお勤めし、尊号のお軸を引き取らせていただいています。

鳥取に来られたのは奥様の療養生活のためでした。現役時代に溜めたお金で鳥取に車椅子で生活できるエレベータ付きの家を建てられ、奥様とお住まいになりました。しばらくはお二人の生活を楽しまれたようですが、介護の甲斐なく7年後に奥様が往生されました。

当山がご葬儀をお勤めしました。それ以降は祥月命日とお盆にお勤めさせていただいていました。ご門徒さんではなくいわゆる信徒さんという形でした。いつも30分間正信念仏偈を一緒にお勤めし、それから30分間お話しをしていました。

その後大阪の方でお父様がお亡くなりになり、その日も祥月命日のお勤めをしていました。若い時の話しや釣りの話しなど楽しそうに話しておられました。年に二、三回ですが11年間通いましたので、人が年をとって行くということを目の当たりにしました。諸行無常そのものでした。