2017年11月19日日曜日

ひもおとしのお勤め

長女の末っ子の「ひもおとし」の法要を勤めました。一般的には七五三ですが、山陰地方では「ひもおとし」としてお祝いします。七五三が女の子は三歳と七歳の時に、男の子は五歳の時にお祝いをするのに対し、「ひもおとし」は男女ともに満三歳でお祝いします。「ひもおとし」は漢字で書くと「紐落とし」となり、幼い頃は着物を体に固定するための腰紐のようなものを腰のあたりに縫い付けて、それを結んでいました。三歳くらいになると帯を結べるようになるため、それだけ成長したことを祝って行う行事です。神社にお参りすることが多いのですが、お寺でも出来ます。お寺でおこなうお祝いの行事として、生まれて初めてお寺にお参りするときにおこなう初参式、結婚式、成人式などがありますが、感謝の気持ちを仏さまやご先祖様に報告する行事ですから、入学・卒業・就職・還暦・古希など人生の節目にお参りされればいいと思いますよ。


2017年11月18日土曜日

護持会日帰り研修旅行

養源寺護持会は、念仏奉仕団や伝灯奉告法要への参加など、毎年一泊二日の旅行を続けていましたが、泊があると参加できない方もあり、今回は日帰りの研修旅行を実施しました。日帰りでなおかつ研修の要素を入れるとなると、選択肢が少なくなります。浄土真宗の教えは基本的に法然上人の教えと同じです。その法然上人が出生された岡山の地に浄土宗誕生寺があります。岡山県北部の久米南町というところにありますので、鳥取から約2時間で行けます。
今回は誕生寺のご住職のお話しを聞き、仏の前には万人は平等であるという法然上人の教えを確認することが出来ました。境内には本堂、阿弥陀堂、御影堂(みえいどう)など多くの建物がありますし、鎌倉大仏の小型版である阿弥陀如来坐像など銅像などもいくつか見えました。もう少し時間があれば単独で散策して見たいものです。
昼食は岡山プラザホテルで取りましたが、ここはライオンズクラブで何度か使ったことがあります。ここから10キロほどの距離ですが、市内の真ん中を通るため30分かかってRSKバラ園に到着しました。最盛期は過ぎている感じですが、バラにはこんなにたくさんの種類があるのかと思うほど、色とりどりでした。案内して下さる方も親切で、バラの切り花があたるガラポンをさせていただきました。10人くらいは当たったのではないでしょうか。それから予定にはなかったのですが、奈義町の山の駅の奥にある菩提寺大イチョウがライトアップされているというので、見に行って来ました。わずか1週間のライトアップの中で見る大イチョウは圧巻でした。





 
 

2017年11月17日金曜日

誕生日

フェイスブックでたくさんのおめでとうをいただきました。今日で68歳になりました。もう誕生日がうれしい年齢ではなくなりましたが、おめでとうと言われるとやっぱりうれしいです。

ただ、誕生日の誕という文字には、いい意味はありません。簡単にいうと「あざむく」「いつわる」「大うそをつく」ということです。人が生まれるのに、なぜこの文字を使ったかということですが、私は次のように理解しています。人が生きていくということは、他人を欺いたり、自分を偽ったり、嘘をつきながら生きてゆくということではないでしょうか。仏教ではこれを妄語といって、戒めの代表的なものです。

自分の人生を振り返っても、「あざむく」「いつわる」「大うそをつく」の繰り返しでした。

年を取ってからは飾ってもしょうがないことがわかって、少しは減りましたが、飽くまでも少しです。人というのは生きている限り、嘘をつき続けているのでしょうか。政治家の言うことにしても、相撲取りの言うことにしても嘘が混じっていることは見え見えです。悲しむべきことか、これが普通の姿なのかもう少し考えて見る必要がありそうです。
 

2017年11月16日木曜日

死にたいという相談

お坊さんが答えるhasunohaには、死にたいという相談が時々あります。過去に遡ると同じような相談もあり、過去の回答を見て欲しいと思うこともありますが、背景は人それぞれに違うのでどの相談にも真摯に対応する必要があります。
死にたいという気持ちに関わらず、人間の気持ちというのは絶えずゆれ動いています。あちらがいいかこちらがいいか迷うことはしょっちゅうで、はじめから最後まで同じ気持ちということはありません。少しの言葉で救われたり、より深く傷ついたりすることもあります。死にたいと云ってSNSに投稿する人も迷っていることには変わりありません。
死にたいという相談の背景には、死ぬほどつらいことがあるということですから、まずそれを聞いてあげることが大切です。修羅場をくぐった経験豊富な方が相談者であれば、その言葉で気が変わることもあると思います。
hasunohaの相談を見ると、死にたいというような緊急を要する事案には素早く多くの僧侶が回答しておられます。質問者の方がびっくりされるくらい回答数が多いのです。それで自分は一人ではないと思い生きる勇気を持った方もおられます。
死ぬほどつらい経験を乗り越えることで、同じような環境にある人を救うことが出来るかも知れません。人間に生まれる確率は、奇跡と言っていいくらいの確率です。学者によると三億円の宝くじが100万回連続で当たるくらいの確率だそうです。もう一度奇跡を信じて生きて見ましょう。
 

2017年11月15日水曜日

お寺のご縁物

「お寺に粗品があるの!」とびっくりされるかも知れませんが、養源寺にはお参りの方にお渡しする「ご縁物」があります。お参りされた方全員に必ずお渡しするということではありませんが、そうでなくとも例えば伝道用の冊子をお渡しするなど、どこかで縁を持って欲しいと思って何かをお渡ししています。
今あるご縁物は、線香、ファイバークロス、文庫本「おしゃか様からしんらん様へ」、子ども用仏教書「ブッダが先生」の4点ですが、今回新たに「爪楊枝携帯グッズ」が加わりました。爪楊枝を携帯するのは、ちょっと面倒ですがこのグッズならポケットにも鞄にも入れておけます。
いろんな会社から見本やカタログを送ってきます。ほとんど似たり寄ったりですが、たまに興味をひくものがあります。それが今回は爪楊枝携帯グッズだったというわけです。こんなのはもらったことがないと先ず評判はいいです。まあタダでもらうわけですから文句は言えないでしょう。
これからのお寺は、まず知っていただくことが大切です。そのためには「ご縁物」を準備しておくことも必要ではないでしょうか。
 


2017年11月14日火曜日

怒りとストレス

朝から日馬富士による暴力事件のニュースが飛び交いました。事件があったのは10月26日の鳥取巡業の前日の夜行われたモンゴル出身力士懇親会の席だったようです。こんなことで鳥取の名前が出るのは嫌ですね。貴ノ岩は鳥取城北高校の出身ですから、故郷に帰ったような気持ちだったかも知れません。城北高校の相撲部の監督は関取石浦の父親です。貴ノ岩以外にも逸ノ城や照ノ富士、石浦などが城北高校出身です。
まずこの事件を聞いてビール瓶で殴ったというのが驚きでした。ビール瓶は相当な破壊力がありますから凶器と同じだと思います。翌日の巡業場所では、元気な様子が映っていましたから、不可解です。病院に行ったのが約10日後というのもよくわかりません。
診断書は右中頭蓋底骨折、髄液漏の疑いなどとなっていたわけですから、さらに精密検査をする必要があるのではないかと思えます。いずれにしても横綱の暴力事件ということになれば、進退問題になることは避けられないと思います。
怒りは人間の持つ煩悩のなかでも三大煩悩に入るものです。訓練をすれば、怒りで前後の見境がつかなくなるのをある程度防ぐことは出来るのですが、これからは相撲でもメンタル面でのトレーニングが必要になるかも知れません。
怒りのコントロールが出来なければもっと重大な犯罪に結びつく可能性もあります。現代のようにストレス過剰な環境では、それを持ち越さず早めに解消しておくことが必要です。睡眠負債という言葉がクローズアップされましたが、ストレス負債ということもあるような気がします。溜め過ぎたストレスが今回のような形で爆発したのかも知れませんね。 

2017年11月13日月曜日

分骨の相談

幼子を残して亡くなられた女性のお母さんがおいでになり、娘の嫁ぎ先で葬儀を済ませたが、遠方のため日常的に墓参りをすることが出来ないので、分骨をして自宅の仏壇に遺骨を安置したいが構わないかと言うことでした。(ご門徒さんではありません)
お骨を分けてはいけないという決まりはありませんし、納骨前であれば改葬許可なのどの手続きも不要です。 仏教で言いますと、お釈迦様のお骨は仏舎利(ぶっしゃり)といって、世界各地に散らばっていて供養されていることからも、分骨すること自体に問題はないと考えられます。 浄土真宗では、お骨の一部を、親鸞聖人のお墓がある京都の大谷本廟に納骨するというという慣習もあります。
子供さんを亡くされて消沈されている様子でしたので、分骨されることをお勧めしましたところ、安心され喪主にお願いして見るということでお寺を後にされました。
相談から一か月後の今日お見えになり、喪主から分骨を断られたと言うことでした。ショックを受けられている様子でした。喪主が分骨を拒否されたようですから、分骨は不可能となりました。
分骨に関しては「魂が分割されるので成仏できない」「あの世で五体満足になれない」などといったことを信じておられる方もありますが、それらはすべて何の根拠もない迷信なので残念なことです。
次善の策として過去帳を作り、それを仏壇に安置して手を合わせられてはいかがですかとお話ししたところホッとされた様子で「そうします」と言われました。
教義から云えば正しい作法と言えない部分もありますが、それで救われる人があるなら多少のことは良いと思っています。これが恕の心ではないでしょうか。